えこひいき日記

2003年2月17日のえこひいき日記

2003.02.17

昨日は「ダンス・パフォーマンス・ワーク」の発表会を観にいった。
これはもともとダンス未経験者を対象としたワークショップで最後に発表会があるのだが、今回は経験者で構成されるワークと発表会である。発表する作品の作り方は各々パフォーマーに任されていて、最終的にアドバイザー(指導者)のJ&Mさんたちがいわば「編集作業」をして、一つの上演時間の中にまとめるのだが、「ひょえー、よくまとめたなー」と感心するばかりの、怒涛の発表会であった。だって、発表者の個性がものの見事に違っていて、しかもかなりのキャラクターなのだもの。あんなん、ふつう、ようつなげません。まずはその労をねぎらいたい気分であった。
昔?PAFFYの歌に「~もぎたての果実のいいところ~」という歌詞があったが、私の率直な感想はそんな感じである。パフォーマーの作品はどれもある種のストレートさがあって、新鮮で、好感が持てた。だが、辛口なことを言わせてもらえるなら、「からだ」で表現できる表現力は、まだまだたどたどしさがある。「たどたどしい」ことが悪いことだとは思わない。劣っているとも思わない。「からだ」の表現なんてたどたどしくても、想いや、真剣さ、切ないようなピュアな感じなんかは、ちゃんと伝わってくる。でも、そういう「たどたどしさ」が心を打ってくれる表現として通用するのは最初のうちだけなんである。残念だけれども。もしも次に全く同じ手法で舞台が上演されたら、私は観にいきたいと思うかどうか、気持ちに疑問符がつく。だからこそ、惜しいな、と思う。もっと「からだ」でしゃべれるのに、もっと細やかなニュアンスとか、空気とか、間なんかを、ちゃんと自分の「からだ」で伝えられるのに、と思ってしまう。そんなことを思ってしまうのは、それだけ発表会と発表者の姿勢に好感が持てちゃったからかもしれない。(そうでなかったら、2度と観に行かない、で終わりにすればいいのだもんね)

例えば、「ありがとう」という日本語自体は「あ」の次に「り」、「り」の次に「が」と、発音していけば一応「音」になり、その音の並びを「言葉」と認識してもらえる。ピアノだって、音符通りに鍵盤を押さえれば一応「弾ける」。ギターやバイオリンもそうだし、声楽だって基本的に同じだ。踊りも、その「かっこう」をすれば一応それらしく見える。でも、それだけでは、物事を伝えることにならない。「言葉」の意味や、音楽や、踊りにはならない。しかし技術的なことの習得ですらとてもたいへんで、しばしばそのことを見失いやすくなる。
「音」を「音楽」にするもの、「動き」や「静止」を「踊り」にするものが何なのか、私にはまだうまく言語化することが出来ない。だがこの仕事をしていて思うのは、「音」を「音楽」にする力はそれをする本人の中にしかないということだ。その「本人の中にしかない何か」が表出されやすい状況を作る一つの手立てとして、「からだの使い方」があると私は思っている。「余計なことをしない」こと、「何が余計なことなのか」を知っていること、それが表現を研ぎ澄ます手立てになると思っている。例えば、「ここ一番、頑張ろう!」などと気合を入れすぎるとつい「余計なこと」をしてしまってずっこける、普段できることまで出来なくなる、という経験は誰しもあるのではないだろうか。どんなときでも、自分自身を失わないこと。自分が出来ることをちゃんとやること。そのための平素の稽古であり、練習である。しかし人間の感覚はインパクト弱い。つい、気になるところとか、難しいところにだけチェックをれてそれを「練習」と呼んでしまいがちである。しかし実際のところ、舞台でトチるのは「そこ」ではなく、普段は「出来てあたりまえ」とばかりに「意識していないところ」であるということが多いのではないだろうか。「無意識」の怖いところはまさにこういうところなのだ。「出来てあたりまえ」などという現象は、本当はない。やるべきことをやっているからできるだけのことなのである。そのメカニズムを無意識の渕に沈めててしまっているのでは、本当の意味での洗練はないのだ。欠落を埋めることだけが向上だと思っているのは、とても貧しい感覚である。

つい熱くなっちゃうのだが、仕事をしていても「ものを創る人間」とのレッスンはやはりとても楽しい。クリエイティヴなエネルギーは、人を元気にするような気がするのだ、単純に。「えこひいき」なのかもしれないけれど、できるだけそういう人たちの力になりたいなあ、と思ってしまうわけなのである。

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