えこひいき日記

2003年7月20日のえこひいき日記

2003.07.20

小学生の女の子4人が監禁されその容疑者が監禁されたのと同じ部屋で自殺したり、12歳の男の子が4歳の男の子を「性的」な目的から殺害するに至ったり、そういう事件が続くと直接に自分のことでなくても心が痛い。しかし同時に、これを「異常で、それゆえに他人事」として嘆いたり裁いたりするだけではなく、ある程度主体的に考えることの大切さを感じるのである。考えていることがごちゃごちゃしすぎて、ここにちゃんと書ききれるかわからないが、考えていることは主に二つ。一つは「サティスファクション能力」に関することであり、もう一つは「性とは、自己にとって何なのか」ということである。

私が女子短大で授業を担当していたときに、「自分」とか「自己」を考えるにあたって、自分の「性(性別)」をどのように思っているか・・・ということを慎重を期しながら、話題にしたことがある。
慎重にする必要があったのは、「からだ」や「じぶん」という存在が自分自身の中でクローズアップされるのが「普段「自己」と認識する以外の要素」「異常」に接したときであることが多いように(例えば自分の「からだ」の存在を意識するのは、怪我をしたりどこかが痛んだりという、「異常」を認識したときであることが多いことから、かえって「異常以外」の状況(「通常」)に対する認識をもっていなかったり、「異常時」の感覚や認識を「通常認識していること」のように勘違いしたりすることがあるように)、「性」もまた、ときのそれにとまどっだり、困ったりするときに意識することが多い。女性にとって「自身の性」認識は、それが侵害されたときに感じる感覚・・・例えば、痴漢行為の被害者や、恋愛関係、あるいは恋愛にある種の「強迫」を感じたとき・・・に結びついていることも少なくない。大事な話題ではあるが、悪戯に不快感を刺激し、それによって妙な「克服強迫」に彼女達を追いやることは、私の本意ではなかった。だから慎重に意図を説明し、その時点で不快感が高ければそれを授業のテーマに取り上げることは最小限にすることを生徒たちと話し合った。結果、深刻なトラウマを持つ生徒もいなかったので、授業の中で随時話題に取り入れることにしていた。
そうした授業に来ていた学生や、クライアントの中には、本当は恋愛が怖いのに、恋愛(というより「他者からそのようにみえる」関係や、性的な行為を持つこと)をしてしまったり、結婚してしまったりしている女性は少なからずいた。「彼氏がいない私は、おかしいのではないのか」女性として魅力がなく、欠陥があるのではないか」と思ってしまったりするようだ。そうして不安を払拭するためにつくった「彼氏」とはあんまり長続きしないことも多いし、本当はそういう自分にすこし戸惑ったり悩んだりもしているようだが、それを「悩んでいる」と口にするのも「私がおかしいのではないか」と思ってしまう人もいるようだった。そうした「不安」にもとずく行為、保証の行動は、「恋愛」というリレーションシップだけに留まらず、「自己の安定」や「自分」の価値を自分で計るような行為でもあるようだ。
性的リレーションシップを意識することや性交渉の低年齢化の問題は、ここにあるのではないかと思う。何歳で性行為を行うのがよいか悪いかなんて、個人差が大きすぎて私にはわからない。低年齢者に限ったことではないが、性交渉の危険性があるとすれば、それが「自己」の保持の問題とどのように絡んでいるか、という問題だと思っている。例えば、性交渉を断ると即相手から嫌われるんじゃないかと思って断れない状態にあるとか、避妊具の装着について話が出来ないとか(多分、これも「言うと嫌われるんじゃないか」という思いで)、それは「恥ずかしい」というよりもコミュニケーションの断絶である。きつい言い方をするのなら、「自分の性を売ってかりそめに自分を買い戻そうとする行為」であって、セックスをそういうことに使うのは、楽しくない。でもちゃんと恋愛中のカップルでもこういう事態には度々出くわすだろうし、例えば避妊具の装着をしないのは「君を愛しているからだよ」などといわれてしまうと、その真意というよりも言葉のマジックに引っかかってしまって、「断る自分の方が悪い人間なのではないか」と思ってしまったりする。大人でも自力でこの「魔法」から覚めるのは難しいのに、低年齢者であればなおさらではないかと思うのだ。
私自身、女性という性別に生まれて、その性別ゆえに感じた嫌なこともある。でも、できればそういうときにだけ自分の性別を意識するのではなく、自分の性別を楽しんで生きていきたい。それは自分の性を誇示することでも乱用することでもない。言葉にすると単純なことだ。したいときにそれができて、したくないときはしないでよい、という、それだけのことのように思う。しかしそれを実現するには知恵や知識や情報や理解が必要なのである。まがいなりにもものを教える立場の者として、あるいは世代的に「親」の立場の者として、「子」の人たちに教えてあげられるのは、自分の生を(性も含めて)肯定して生きていくことだけだと思う。

1923年にライヒという人が提唱した『オルガズムの理論』というのに、このような文章がある。と言っても、私は彼の著作を直接読んだわけではなく、渋澤龍彦著『エロスの解剖』(河出書房新社)の中に引用されていたのを読んだまでであるのだが、引用してみよう。

「性行為に伴う感覚を、わたしの患者たちに正確に記述せしめようと努力した結果、次のような臨床的な確信が得られた。すなわち、患者たちのすべては例外なく、性行為における一つの重大な障害に悩んでいたのである。とくに自分の情事の数々を得意然と吹聴する男、一晩に何回も交渉することができると自慢する男に、そういう傾向が顕著であった。疑問の余地はないのである。たしかに彼らは、勃起能力においては卓れている。しかし写生においては、ほとんど快感を伴わず、場合によっては、ぜんぜん快感がないこともあるのだ。いやそれどころか、嫌悪感あるいは不快感さえ伴うことがある。そして、行為中の男の頭のなかの想念を分析してみると、多くの場合、それはサディステックであり、虚勢を張っているようであった。強者をもって自認する男にとって、性行為は、女を制服ないし強姦するという意味しか持っていなかった。彼らは、自分の男らしさの証拠を見せようと努力する。勃起状態を持ちこたえる力を、賞賛されたいと願う。真の動機はそんなところにあるので、それは、強さと呼べるようなものではないのである。」

渋澤龍彦は「まさに男性の痛いところを突いた、辛らつきわまる論議」と言っているが、しかしこれは果たして「男性」だけのこと、あるいは「性交渉」だけのことであろうか、と私は思うのである。「オルガズム」とは「性的興奮の最高潮」を意味する言葉だが、それを「結果的状況」とだけ判断せず、「能力」・・・つまり、その状態に至れるプロセスの問題と判断したところが、面白い。手前味噌ながら、「からだの使い方」ということと重ね合わせて考えたりするのである。ちなみにこの本の中では「オルガズム能力」とは「なんらの支障もなく生物学的エネルギーの排出に耽溺しうる能力であり、肉体の快い不随意的収縮により、鬱積した性的興奮のすべてを完全に放出しうる能力」と説明している。後半の記述はともかくとして、自分が行動に費やすエネルギーを「let it go」できるというのは、心地よい「からだの使い方」についても共通するところがある。だから私は「サティスファクション(満足感)の能力」と広義に言い換えて冒頭に記した。何らかの理由でその「快感」を感知することができずにいる人は、自分に感知できる感覚の求め方として、ハードな方法を選択することは少なくない。しかも(だから?)その動作や行為に対する満足感はきわめて薄く、自覚や記憶も薄く、求める結果にも至ることとは少ない。それは自著『アレクサンダー・テクニックの使い方 「リアリティ」を読み解く』の第5章にも書いているので、よかったら参照していただきたい。

満足感から見放された欲望は辛い。全くの私見だが、小学生を監禁して自殺してしまった容疑者は、絶望してしまったのではないかと思ったりする。手に入れても手に入れても「満足感」が手に入らないことに絶望したのではないかと思ったりする。彼に同情する気はないが、しかし、もしそうであったとするならば、それは底なしに恐ろしい感覚だったに違いないと思ったりする。

気がついたら放り込まれている「世間」とか「社会」とかいうプールの中で、自分が沈まずに浮いて泳いで渡っていけるのだろうか・・・という不安は、多分「おとな」の中にもあるが、「こども」の中にもあると思う。不安な「おとな」を目にする機会が多い「こども」だったら、なおさらそうかもしれない。そういう時、自分が沈まずにいるためのツールとして「お金」や「性的な?魅力」というものは、かなり強力なアイテムだと見えることだろう。私もそれを否定する気はない。極端に欠乏すると、やはり困るだろう。特に不安で仕方がないときには、それらはまるで「免罪符」のように思えるかもしれない。でも、「それさえあれば大丈夫」というようなものではないことも、片方の事実ではないかと思うのだ。「どう使うか」でかなり「自己の保障」のされ方は変わってくると思う。そういう意味で、これらは思っているほど「(自分自身にとって)万能」ではないんだけれども、「じぶん」というものが何なのかわからないときには、それに頼っても自己の輪郭をまとめ上げてしまいたいと思ってしまうことも、また人情なのかもしれない。誰しも「私は仕事をちゃんとしているから大丈夫」とか「稼げる私は大丈夫な人間」とか「結婚したから大丈夫」とか、本当の「自信」というよりも、ほんのりとした「依存」を持って、自己の安定を図っているのかもしれない。
私だって明日をも知れない身であることは変わりがない。そうでありながら明日も、1年後も、10年後も、かわらず仕事をしているかもしれない。でも「10年やったから、この先も大丈夫」とかいうものではないのだ。それはあくまで過去のデータであって、今の保障ではない。いろんなものを失うかもしれない。でもそうでもないかもしれない。何も決まっていない未来に向かい合う自分の立場の、なんと弱弱しいことか。
でもいいの。一日ずつ、正直に行こう。それしかできることなど、ないから。

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