えこひいき日記

2003年8月4日のえこひいき日記

2003.08.04

8月に入ったとたん、暑さも本気モードである。なかなか。
そんな中、鳩の雛たちはぴょんぴょんジャンプができるようになった。小さめの鉢の上に飛び上がったり、より連続的に歩き回ったりすることができるようになったのである。しかしまだバランスをとりあぐねることもあるらしく、よろけてばたばた暴れていたりもする。なかなかかわいい。

さて、お盆前が締め切りの原稿にそろそろ取り掛からねば・・というところである。これは「誠信プレヴュー」という誠信書房(私の訳本や著作でお世話になっている出版社さん)のPR誌なのだが、先日東京で編集者に会ったときに軽く打ち合わせをして、曖昧にプランをお話したら、「そんな感じでいいですよ」と言われたので、何となく安心してしまい、それ以降何のネタも考えないまま今日になってしまった。限られた字数での原稿というのは、書下ろしとか、この「えこひいき日記」のように「好きなだけ書いてよい(あるいは、書かなくてよい)」というのとは違うものがあって、文章が短めだから楽、とかいうものではない。ものを書くのはしろーとなんだから、まじめに取り組まねば・・・と自戒しているところである。

しかしそんなことを言いつつも、レッスンの合間にNHKの「にほんごであそぼう」という番組の、野村万斎さんと子供達を見て笑って和んでしまう。あれはよい。あれは妙に真似して動いてみたくなる。

話は変わるが、ゾウの脳の感覚野の60パーセントは嗅覚からの入力であり、嗅覚器である鼻は人間でいると手のように、触覚機能としても運動機能としてもすぐれて働くという。人間の場合は視覚情報によって得られる感覚がきわめて大きい。だから、見えただけでそれを理解したり体験した気分になったり、逆に形がなくて感じられるものや、見えないのに感じられるものに対して事実異常の恐怖心や警戒心を抱くことがある。夏場だから言うわけではないが、いわゆる霊感話の多くは、「存在するものは見えるはず」という前提を裏切る現象を知覚したときに抱く感覚に基づくものが多い。
ただし私がいう「霊感」とは、「幽霊話」の類だけではなく、インスピレーションやセンセーション、「直感」のようなものも含んでいる。例えば、作曲家や作家が名曲・名文を発想する瞬間、あるいは名演奏が生まれるその瞬間の感覚を「霊感(を受ける)」と言ったりするように。それは恐ろしいものではないが、しかし不思議で、素晴らしく、それゆえに「常ならぬもの」として日常生活とは距離をもって感じられ、やはり神秘的なものと感じることが多いのかもしれない。
それを神秘的と感じる感覚は嘘ではなく、ぞくぞくするくらいリアルなものだが、しかし同時にそれは「たまたまくじを引いたらあたっちまった」的なものというよりも、稀でありつつもある種の「必然」という気がしてしまう。それはレッスンをしているときなんかにそう思うのだけれども・・・
ここにも以前から何度か書いた記憶があるし、確か自分の書き下ろしの中にも書いたのだが、音楽家とレッスンをしている際に「からだの使い方」の無駄を省き、その行動をするためにその演奏者がする必要があるミニマムな動きだけをしてみると、そうと狙ったわけではないのに、突然「これだ!」という音が出たりすることがある。「ああ、これってこういう音楽だったのか」と突然音楽の意味や意図するところが判ったりすることがある。それは何度体験してもすごく楽しい瞬間だ。
音楽のように「音」に反映されるものばかりではなく、ダンサーの何気ない動きでもそうなのだ。無駄のない使い方をしてみると、数秒間の、あっという間に目の前を流れ去ってしまう、けして派手ではない動きに意識がちゃんとステイできたりする。以前、確かダンサーに同じ動きを「からだの使い方」を変えて踊ってもらったものを録画したことがあったが、その2つの動きは比較すると、全く見え方が違う。時間の長さも違って感じられる。数秒間なのに情報が濃く、しかしあっという間なのだ。派手な動きで注意を引くのは簡単だけれども、それは深みに欠けることが多い。難易度の低い動きというのは、それ自体は「できてしまう」動きであることが多いので、クオリティを問う作業に持ち込むのはなかなか難しいし、そもそもそこに「質の違い」が存在していることにすら気がついていないこともある。気がつかなくても生きていけるけれども、私はそういう違いを面白いと思うし、私なりに大事なものだとも思うからこんな仕事をしているんだろうと思う。
さらに不思議といえば不思議なのが、その動きをしたときにどうして「これ」が「それ」だとわかるんだろう・・ということである。しかしそれに関しては、クライアントも私もほとんど迷ったことはないように思う。必然的な動きは、圧倒的に「快」なのである。

カテゴリー

月別アーカイブ