えこひいき日記
2003年9月25日のえこひいき日記
2003.09.25
映画『フリーダ』を観にいった。映画自体観にいくのがものすごく久しぶりだったのだが、この映画はどうしても観たかったのだ。
フリーダ・カーロという画家の名と、その作品を最初に観たのは15年位前かと思う。奇妙な絵だと思った。でも何か胸に迫るものがあった。ものすごく自分史的な、自分の実生活と切り離せないテーマをダイレクトに扱っていながら、妙な甘えやねちっこさがないのが不思議だった。けっこうすさまじい絵なのに、いつまでも観ていられるような気がする絵だった。
当時の私は美学・芸術学科に籍を置く大学生で、美術には興味はあったものの、その見方に安定したものがあったとは思わないが、しかし画家がその外側の世界ではなく内なる世界を描き出すべく筆を手にしたときに、その内なるリアルさに真摯であるか否かについては、私なりにシビアにものを見ていたように思う。己の内的世界を描く作業は、いわゆる写生のように第三者から見てもそれだと見えるものを紙に写し取るのとは違う。逆にいえば、外面的に何かとそっくりに描かれていることをして「描けている」という逃げ口上が通用しにくい。しかしまた鑑賞者から見えない世界を描くからと甘く見て、自己に踏み入らず単に目を引くファンシーで奇抜なものを描いたとて、本人にとってリアリティのないものは稚拙に見えるだけであろう。目に見えないリアリティを描いて、それがリアルなものかそうでないかを判別するのは容易ではないが、個人的には簡単に言うと、そういう絵は「目」や「頭」にではなく、どうしようもなく身体にくるように思う。なんだかほとんど「憑依」に近いのりで、それとて幼い感受性のなせる業かもしれないし、それをもってしてのみ作品を批評するつもりもないが、、例えばエゴン・シーレの絵の前に立つときりきりするような痛みを身体に感じたし、ムンク展ではもう空気がとぐろのように重くてまとわりつくようでその場に倒れそうになりながら絵を見ていた。しんどいことだったが、でも、美術品とか芸術作品と呼ばれるものがただ「きれい」とか「うまい」だけではなく、それが生きて会うことはなかった人間の作品であっても観る人間をなぎ倒すくらいのパワーが有すことができるのが面白くて仕方がなかったから、まがいなりにも大学に籍を置いていたように思う。
その後、彼女の人生を垣間見るきっかけとなったのは9年位前のことで、イサム・ノグチのバイオグラフィーを通してであった。ノグチがメキシコに滞在し、フリーダ・カーロの夫で美術家であり革命思想家でもあるディエゴ・リベラの客として招かれていた間、ノグチはフリーダの恋人だった。彼女のベッドの中にいるときにディエゴが帰宅し、銃を片手に追いかけられた逸話は有名である。
フリーダもディエゴもノグチも、恋人や愛人とうわさされた人間の数はなかなか華やかなのだが、それを芸術家らしい奔放さと片付ける気に私はなれない。その頃、フリーダの夫ディエゴはフリーダの妹とも関係を持っていた。これまでも多くの愛人を持ち、そのことを怒りながらもどこかで受け入れざるを得ないことをも受け入れてきた彼女だったが、それは彼に対する無関心によってではない。「受け入れる」ことは「それに対して何も感じないこと」ではない。フリーダはその感情を常にディエゴに対してあらわにしてきたのだが、さすがに妹と夫の関係は彼女を打ちのめしたという。
その頃に描かれたフリーダの作品『ちょっとした刺し傷』は、ちょうどその頃にあった実際の事件をモチーフにしたものだが(恋人を20回以上も刺して殺害した男が裁判で「ちょっと刺しただけ」と言い放ったという事件)、血まみれで横たわるキャンバスの中の女はまさにフリーダだった。私は何所でこの絵を目にしたのか記憶が定かではないが、自分の胸を刺されたかのように痛んだことを記憶している。血まみれの異様な絵が気持ち悪かったからではない。変な言い方だが、キャンバスの中の女は、どこかで殺されることを受容しているように思ったのだ。画面の女の姿は凄惨に血にまみれているが、抵抗の後がない。ただ刺されるがままに避ける術もなく刺されているように見えた。それは例えば寝ているところを刺されたとか、そういうことではなく、この女性は男が自分を殺すことを知っていて、抵抗できなかったように思えた。男から刺されるずっと以前からこのことを予感していたような、傷口から血が流れ出すより以前から自分のからだから少しずつ失血し続けていたことを自覚しているような、じわじわとした諦めのようなもの・・・彼女(フリーダ)を浸していた確信を持った絶望感のようなものをキャンバスに見たような気がして、自分のからだからもじわじわと力が抜けて冷たくなっていくような感覚を覚えた。
フリーダにとってディエゴといるということは、そういうことだったのだと思う。ディエゴに関していうと、彼女は実に耐える女性であった。しかしディエゴ以外の男女の恋人に関しては、彼女は全く耐えないのであった。自分の性の欲求を肯定し、まるで気に入った花をいけその花が枯れるといけかえるように恋人をそばに置いた。でもそれが本当に彼女にとって真に快楽であったのかどうかはよくわからない。全くそうでなかったとも思わないけれども、彼女にとって一番重要なのはいつもディエゴだった。いつもディエゴをみていた。
大なり小なり、人を愛することの中に「確信的諦念」は在るような気がする。誰かを愛してしまったら、その人の(あるいはその人との)楽しいところや素晴らしいところだけではない、どうしようもないところや、時に殺してやりたくなるようなところをも引き受けなければならないときがある。それが嫌でわかれるのならそれでいいが、それでも一緒にいたいと望むなら、それを引き受けるしかない。でも、あれほどまでに血まみれになっても相手を引き受けることができるだろうか。そういう覚悟を持つ、というようなレベルではなく、相手が実にたゆまなく自分を裏切り続け、それに苦しむ自分をみて「どうしたんだい?たいしたことじゃないよ。愛しているのは君だよ」と笑い飛ばそうとするとしたら、自分はどうしたらよいのだろう。
ただ、私はこれまでフリーダの側からしか一連の出来事を知っていなかったので、そのとき一体夫ディエゴは何をしていたのか知らなかったのだが、少なくとも映画の中でのディエゴは、それほど悪人ではない。つまり、彼はフリーダに対して無関心というわけではなかった。モデルや女優達との「握手より心のないセックス」を止める気もないディエゴだったが、自分のことで苦しむフリーダの苦しみについては、心を痛めるのである。ディエゴにとってもフリーダは大切な人なのであった。ただ、ディエゴはどうしようもなくディエゴで、フリーダもフリーダであることをやめる意思はなかった。だから相手のために何かを変えるとか止めるとかいう意思は持ち合わせない二人が寄り添う場所には、やはり絶え間なく癒えるや否やのタイミングで「ちょっとした刺し傷」が作られ続けるのである。
ところでフリーダ・カーロの絵の中に在る、内面のシュールでリアルな世界観というのは、メキシコという土地の文化的な側面もあるのかもしれない。メキシコには、まるで絵馬のように、自分の祈りや願いを絵にして教会に捧げる習慣があるのだという。私は仕事柄(?)人間が自分自身にすら見栄を張ったり嘘をついたりすることを知っているが、自分自身には消して見栄を張らないフリーダの自分の内面を透明なまなざしで見抜く視点は、そうした分野や習慣が背景にあってより研ぎ澄まされたものなのかもしれない。また、映画を観るまでそれらを関連付けて考えることはなかったのだが、映画を見終わったあとに、ふとオクタビオ・パスという作家のことを思い出した。彼の作品『波と暮らして』は私の大好きな作品で、しかも飛び切りシュールでリアルなお話なのだが、それはどこかディエゴとフリーダの関係とも共通する何かを描いているような気がした。彼らに個人的な親交があったかどうか、私は知らないが、確か生きている時代も重なっているのではなかったかと思う。けして自分とは同化しない相手と格闘し抱きしめ続けたディエゴとフリーダに対し、オクタビオ・パスの作品の中で「女(波)」は最後には凍ってしまったところを「男(人間)」にアイスピックで砕かれてしまうのだが、でもそれはそれぞれに「愛してしまった他者」への態度として、どこか重なるものを感じてしまうのだった。