えこひいき日記

2003年9月29日のえこひいき日記

2003.09.29

教えていて楽しいと思えるような、クライアントに恵まれる私は幸せ者である。
この仕事をしていると、ときには内臓が腐りそうなくらいつまんないメールやら、失礼な問い合わせへの受け答え、けして楽しいとはいえないようなレッスンも行わねばならないのだが・・・かくいう今日も、時間の無駄としか言いようがないレッスンが1件あった。実に久々に「帰れ!」と怒鳴ってしまった。私は日本に帰って来て8年になるが、それ以前のアメリカでの仕事の期間を入れても、これまでに今回のを入れて3件、クライアントをお断りしたことがある。それを「多い」というべきなのか、「少ない」というべきなのかはわからないが、ともあれ、その中でも今日のようなクライアントに出くわすと、つくづく空しく馬鹿馬鹿しい気持ちになる。ここにレッスンに来る人は、自分の状況をうまく言語化できないでいることも少なくない。習慣に基づく困難感や痛みは、その長期化とともにそれをどのように形容すべきかという「認識」を曖昧にさせていることがある。自分の状況をどう言葉に表現してよいのかわからないのだ。だから最初からクライアントが流暢に自分の状況を言語化することを期待しているわけではない。しかしレッスンに来る限りは、自分の言語化しがたい状況と向かい合う姿勢、その形の一つとして「言語化しよう」「認識しよう」としようとする態度や努力は不可欠なのである。その態度があって始めてレッスンが成立しえるのである。ところが今日のクライアントにはその態度すらない。もはや今のままでは立ち行かないことは自身でも明白なのに、この期に及んで腰をすえる勇気のない人間なんて大きらいである。自分自身に「改善」という名の「変化」を受け入れる準備のない人間にここに来ていただいても、時間の無駄だ。それは技法の問題などではない。アレクサンダー・テクニックだろうが、瞑想だろうが、フェルデンクライスだろうが、ヨガだろうが、ただそれを「する」ことに逃げてもただ馬鹿馬鹿しいだけである。こういう人間に限って卑屈なくせにステイタスに対する執着は強くプライドは高く、見栄っ張りで、言葉では散々言い訳をするのだが、その実自分が自分自身を正面から見つめる勇気も、変わる勇気がないのだ。それなのに技法に寄りかかってなにかをやったような気になろうなんて、甘いのである。自著にも書いたが、私は「馬鹿になれる」人間の「逸脱できる」エネルギーには概ね好意的なつもりである。しかし限度というものはある。人は自分が「馬鹿」な状況にある最中には「自分は馬鹿だ」とは思えず、自分が馬鹿じゃなくなってからしか自分が馬鹿だったことを認識できないのだから、今馬鹿なのはしょうがないにしても、せめて自分の悩みの存在を「恥」とか「見栄」とかいう言葉でごまかななくなってから来い、と言いたい・・・
しかしそういうことがあっても前向きに仕事を続けていけるのは、面白くてすてきなクライアントに出会えるからこそであろう。

昨日も、東京から通って頂いている社会学者で茶道の先生でもある方とのレッスンがあったのだが、いまさらながらにミニマムな動作の中に込められる深くて静かでパワフルな「何か」・・・例えば「一歩」というわずかなの動作に内包可能な「ちから」について考えてしまった。これを「ちから」という言葉で表現してよいものか・・・「パワー」とか「エネルギー」とか「凄味」とか、どういう言葉を当てはめるとジャストなのかよくわからないのだが、ともあれ、わずかな動作だがそのことで空間全体が様相を変えるような、動作がある、と感じるのである。その動作が特殊な動作というわけでもない。レッスンでやったことといえば、ただ茶事のときに行うように、すり足で「歩く」というだけのことなのだが、きちんと行われた動作はこれほどまでに人間の目にすみずみまでとまり、それだけで一つの表現となりうるものなのかと、改めて思うのである。大げさな表現かもしれないが、その動作を通して、見る者、その場に立ち会う者に「世界」を見せることができるような気さえするのだ。
ずっと以前に、能の演者の歩み・・・「すり足」という装飾性や派手なアクション性が全くないこの動作が、異なる空間や時間をつないでいくのを妙なる魔法が展開されたような思いで見守ったことがあったが、人間の動作の中に宿る「霊性」のようなものをかなりリアルに感じるのは、ミニマムにして必然的な動作がなされたときという気がしてならないのだ。それは別に動作の大きい小さいによる分類ではなく、その動作がある種の「必然」によって行われたものであれば、舞台と客席に離れて触れもせぬ人間をノックアウトできるくらい、揺さぶることができるし、感動させたりできる。感動は、その人の人生を変えちゃったりすることもあるもんね。そういうことって、どういうエネルギーがそこに在るものだが、言語化するのは難しいが、だからといってその存在を疑う気持ちにはなれないほど、リアルな力だと思う。
同じ曲を演奏しても人によって全く違ったり、同じお料理やお茶でも料理する人、淹れる人によって味が違ったり、そういう「不思議」を我々は日常的に体験している。その「不思議」を受け止めるための大義名分として、それを「上手・下手」「(技術的な?)優劣」の問題にしてしまうことは簡単である。しかし本当にそれだけなのだろうか。仮にそうだとしても、「上手下手」「優劣」も個性の要素に過ぎないと思う。自分の「できないこと」や「できていないこと」ばかりに気をとられ、それを駆逐することのみを上達と履き違えるのではなく、するべきことを知った上で、その上のことを考えたい。
私自身、ただそこに立ったり歩いたりするだけで、「わたし」という人間のすべてがばればれに表立つような、そういう「立ち」や「歩き」をしてみたい、そういう自分の「歩き」や「立ち」がどのようなものなのか、死ぬまでに一度はみてみたいと思うのだが、そんなこと、まだやれた気がしない。認識と行動が完全に一致するような「存在」の仕方をするというのは、つくづく難しい。日本舞踊の名取りである私の母は、よく師匠から「踊りすぎるな」「踊りまわるな」と言われるらしいが、動作をミニマライズし、必然のレベルにまで磨き上げることがいかに容易ではないことか。しかしそれは快感なのである。すっごく面白い。
茶室での動作の話に花が咲いたレッスンであったが、そうしたことを通して私の中ではますます「小さい動作」にたいする興味が高まってきたような気がする。小さい動きというのは、単に「ちっちゃく動く」ということではない。その中でのびのびと広く動かねばならない。でなければ意味がないのである。でも、小さくて、基本的で、複雑というよりはシンプルな動作では、たとえエラーを起こしてもそれが感知されづらかったりする。大きな動作の中でなら、あからさまな失敗や痛みなどを通して「なんか違うぞ」「間違っているぞ」ということが認識されやすいのだが、しかしその大きな動作の中でさえ改善すべきポイントはごく基本的な些細な動作の中にあったりする。だからこそ、この繊細な動作に耳を澄ます感覚を身につけることは、意味深いのだ。

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