えこひいき日記

2003年12月10日のえこひいき日記

2003.12.10

他人様の「あたりまえ」を理解することは難しい。日本語は同じでも、意味するところは違っていたりするし、しかも日本語としては同じ言葉なものだから、その違いにしばらく機がつかなくて、気がついたときには「気がついたこと」よりも「気がつかずにいたこと」のほうにショックを受けて感情を高ぶらせたりするし、ほんとに意思の疎通とか、理解とかって、簡単じゃない。
言葉にしてしまえば簡単なことだけれども、「理解する」っていうのは「違いを容認する」ということに近いのではないだろうか。「同一の考えを共有するように働きかける」とか「同一化する」というよりも。もちろん「違い」の度合いにもよるとは思う。世の中にあるものの全てが理解可能なわけではないから、その「違い」を受け入れると自分の「自己」が倒壊する、というほどの「違い」なら、「容認」などせずに「わからない」という認識にいたることが最大の「理解」かもしれない。
そういう認識に至ったときには、「容認」は出来なくても不思議に感情的にはならないものだが、相手と(あるいは、相手が)自分と「同一」にならないことが不安だったりすると、妙に腹立たしかったりするように思う。そういうとき、その人間の「自己」というのは多分に他者に依存したものなのだろう。まるで写真とのネガとポジみたいな話なんだけれども。
「理解」が「同一化」ではなく「違いの容認である」という前提において、違っていてもその「違い」を容認できるならば、自分の領域を侵されたり否定されたりするのではなしに、相手の存在や相手の考え方を受け入れられ、そういう自分をも受け入れられるんではないだろうか、また自分の世界も広がるのではないか・・・そんなことを考えてしまう。

私がクライアント一人一人とお会いして出会うのは、一つ一つがtrue storyだ。言葉としては整理されていない話も多いので、言語的説明だけではわかりにくい話も少なくない。だから「からだ」をみるのかもしれない。「からだ」の形式をした、その人の「無意識(認識されざる認識)」を。

先日、奇しくも短い原稿の中に「日々のレッスンを通して思うのは、違いや違和感によって顕在化した肉体をも心理をも含めた「既存の自己」をどう許容するかという問題である。変えることが大事なのではない。知ることが大切なのだ」と書いたところなのだが・・・いや、こんな一文を校正の段階で書き加えてしまったのも、そう言わしめるようなことがいろいろあったからなんである。(ぶつぶつ)
「あたりまえ」を疑ったことがなかったり、「わかってあたりまえ」と思っている人間関係ほど、どうしても「今、新たに気がついて得たこと」よりも「これまで気がつかずにいたという事実」に気をとられてしまって、事態をフリーズさせることになりやすい。時にはショックのあまり「逆ギレ」しちゃったりする。とてもややこしい。簡単じゃない。でも、思っているから、できるだけ丁寧に、自分の気持ちや他人の言動に耳を済ませながらやっていこう(特に、この仕事はね)と思っているのだが、それにしてもいろいろあるんでありますよ。(ぶつぶつ。ちょっと愚痴モード)

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