えこひいき日記
2005年1月24日のえこひいき日記
2005.01.24
突然自分の存在に価値がないどころか、存在していること自体が何かの間違いだったような気がして、死にたくなってしまった。(脱してしまった後に振り返れば、これは生理前のディプレッションであった。こういう時期は多少神経質になったり、その延長で悲観的になったりすることはあるが、こんなにひどいのはめったにないことであった)そういう気分になっているときは極めて精神的に疲弊しているので、もうとにかくめんどくさい感じになってしまう。本来潔く死ぬのであれば、自分の何を「間違い」と感じているのか、とか、だいたい「存在」を価値付けだけで語ることにどこまで妥当性があるのか、しかもその「価値」ってどういう価値観か、などということを論理的に考え(論理的に考えることが一種の「価値」概念なのにね)てからの方がよいと思うのだが、思考的体力に乏しいゆえに「めんどくさい」という感覚になってしまう。
それでもその辺から飛び降りちゃおうなどという衝動に身を任せる前に、片付けておこうと思った。例えば死後家族が事務所や私室に入るだろう。しかしいかに家族とはいえ、にわかには部屋の中にある物品の何がなにでどうしたらよいものやら、判断できないだろう。特に事務所はね。だから整理しておこうと思った。
しかしいざやってみると、これはとても数時間で終わるようなものではないことがわかってきた。こういう片付けは、例えば年末大掃除のときのような「この後も使い続けるための」片づけ、埃取り、あるいは「年単位の整理」といったレベルではなく、その後動かすことのない「最終的な場所」を与えるための片付けである。改めてそういう視点で事務所にあるものを整理しようと目論むと、こんな狭い部屋の中に随分と「もの」やら「こと」やらがあることに気がつく。「もの」であるところの物品もそうだが、既に入れてある予定をどうするか、あの人のこと、この人のことをどうするかなど、有形無形の事物にあふれているのである。それらを放り出しては死んじゃいたくないと思っているわけで、因果である。そんななので、片付けても片付けてもどこか中途半端で、片付けるにも途中過ぎるものなども出てきて、片付け方に困ってしまう。
ひょっとしたらこういうことをしているうちに一生終わるのかもしれない。ある意味、こういうことをしていくことが日々の人生かもしれない、などと思い至る。それならば、日々が最後の日、全ての行為を遺言として、最後まで生きてみるのもよいかもしれない、と思って、ちょっと気が軽くなった。