えこひいき日記

2006年3月2日のえこひいき日記

2006.03.02

寒暖の差は激しいものの、季節は確実に春である。奈良では二月堂のお水取りも始まったし。

唐突ではございますが、うちには御歳14歳になる猫がおらしゃいます。名をメフィーと申されます。なぜ猫に敬語かと申しますと、この猫は「師匠」でもあらせられるからでございます(理由は後で説明します)。

最近、このメフィーのお気に入りのおやつに「焼きささみ」というものがある。市販されているペットフードなのだが、若干不可解なのがこの「焼きささみ」シリーズ、味付けが「カニカマ味」「ほたてたらば味」「ほたて貝柱味」など、須らく海鮮風味なのである。「ささみ」だからそのままのお肉味でいいじゃん、と思うのだが、そこはそれ、お魚を好む日本の猫さまたちに合わせたマーケティングなのやもしれず(それならばなぜわざわざ「ささみ」を??というぎもギモンも依然としてあるものの)奥深い経済事情がうかがえる。ともあれ、ニューヨーク出身で味覚の中枢に「肉」が存在する我が家のメフィーにはこの「焼きささみ」シリーズは、日本で手に入る猫の食料の中でもいたく覚えがめでたく、それゆえに若干の攻防戦が展開される日々なのである。

「焼きささみ」は筋を取り調味加工されたささみが一本、真空パックになっている製品である。「成猫には1回に1パック」がこの「おやつ」を与える適量と記されているのだが、なにしろこのおやつはうちの猫に覚えが目出度いので、1回に1パック全部を与えると追加を要求されてしまう。姑息な人間(私)は姑息な知恵を絞り、1本のささみを2~3回に分けて与えるという作戦を立てた。しかし人間の約7倍の速さで歳をとり、長年人間の側にいてその行動パターンを熟知している猫にとっては姑息な人間の知恵など見破るのは容易いことなのである。こちらがいかにそ知らぬ顔で三分の一にしたささ身をほぐして差し出し、自分の心の中で「これが全部だという顔をして出さねば」と思っていても、猫にはあっさり見破られてしまうのだ。差し出した皿を一瞥すると猫は大きな瞳でまっすぐこちらを見上げ「もっとあるでしょう」と言うのである。「いえいえ、ないですよ」などと、まるで「遠山の金さん」などの時代劇のお裁きの場でしらばっくれる越後屋のようなことを、こちらも言ってみるにはみるのだが、猫は相変わらずまっすぐにこちらを見上げ「そんなはずないでしょう」というのである。根性のない私はしらばっくれるのも苦しくなり「うぅぅ」とうなりながら残りのささみを少しほぐし「申し訳在りませんでした」と頭を下げることになる。
「自分の心を偽ることは醜いことです」などと猫に諭され、私は日々の行動の選択基準について再考すべきだと気付く。

私と猫の間では随時「話し合う」ことにしている(と、すくなくとも人間側は思っている)。例えば、人間が行う「出張」は「家出」や「見捨て」ではないことや、獣医が猫に対して行う「医療行為」は「虐待行為」や「嫌がらせ」とは違うということを、私は可能な限り猫に説明する。その他、猫が病気になったときの投薬や食事制限、シャンプーなど、「猫が無条件に喜ぶことではないが必要と認められること」に関しては、説明するようにしている。「どうせ猫には分からないから」と伝える努力を怠ることは、人間側の怠慢と横暴に過ぎないような気がする。人間の側だって、猫が嫌がることを進んでやりたいと思っているわけではない。だからこそ「なぜこれをするのか」を言語化したりして明確化する作業は、人間にとって重要だ。感情的には気の進まない行動を(でもどこかでそれをする必要があるとは思っているものの)自分自身にとって未整理のまま行動に移すとき、人は無駄に乱暴な行動をとってしまいがちなのではないかと思う。「気の進まなさ」を打破するかのように、いざそれを行動に移すときに「余分な力」を使ってしまう。それがとりもなおさず自分や相手への「暴力」になりうる例を、私は仕事でもたくさん見てきた。
猫のおやつ問題自体は、些細なケースかもしれない。でも、私は本当は何をしたいのだろう、と考えたときに、これしきの些細な日常風景の中にも「にごり」があることに気がつく。私は多分、自分が真に伝えたいことを伝えたい方法で伝えていない。それはまだ誰もあからさまには傷つけておらず、罪と呼ぶほどのことでもなく、よくあることかもしれないけれど、自分にとって「ほんとうのこと」でもないような気がする。
私が猫のおやつを小出しにした理由・・・それは人間の経済的な理由(というより恐れ)、猫が際限なくおやつを要求してくるのではないかという恐れ、それによって健康を害するのではないかなどの恐れ、つまり懸念に基づく行動であり、そのことを猫に何も話していなかったことに気がつく。
そこで私は心を改め、猫に対して「おやつを差し上げるのはかまいませんが以下のような心配をしております」と申し上げた上で、「基本的におやつは一日1本と思っているのですが、いかがでしょう?その量を守った上で、一度にではなく分割でおやつを出すことも考えています」と伝えてみた。
嘘みたいな話かもしれないが、それ以降猫からのおやつに関する過剰請求はぴったりなくなった。あいかわらず覚えは目出度く、飽きたそぶりもなくて、毎日欠かさず「おやつ」を待っているのだが。

猫が「師匠」である理由は、時々私の心の「うそ」や「にごり」を実に洗練されたやり方で示してくれることでもあるが、運動面に置いても「師匠」でったりする。とりわけ「ころがる」という動作についての優雅さ、無駄のなさ、水が流れるがごときしなやかさは素晴らしく、事務所では「ころがり師匠」と呼ばせて頂いている。
もちろん「ころがる」以外の動作においても素晴らしいのだが、いかんせん、人間の身では構造上の違いからにわかに真似できないことも多い。最も困難感を覚えるのは「高いところから飛び降りる際に頭を下にして降りてくる」という動作である。肘関節などのクッショニングで衝撃を緩和すれば頭部や顔面を打つことがないとは分かっていても、恐怖が先立ち、つい首を反らせて着地場所から目をそらしてしまったりする。実際に少し首を反らせて肘の屈伸と組み合わせ、胸から着地するような感じにする方法は体操やヒップホップの技法の中にもある。しかしこれを自ずと肩関節のローリングの制限制限を生み出すので、高いところから降りた場合衝撃に耐えにくくなる。
人間の場合、膝の屈伸などを利用するのが普通。だから別に困らないのだけれども、でも単純にすげーな、と思うのである。

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