えこひいき日記

2006年3月13日のえこひいき日記

2006.03.13

昨日奈良のお水取りも行われたというのに、今日は一転雪が舞う天気である。なかなか春はストレートにはやってこないものである。それでもだんだんと陽が長くなり、見上げれば桜の木の枝がピンク色になってきているのが分かる。なんとなくにっこりしちゃうな。

お水取りといえば、今年もお松明を見に行った。「お松明」は、奈良・東大寺の二月堂において約2週間連続で行われる行事。文字通り、火のついた大きな松明を持った堂子と呼ばれる男性が二月堂のテラスを走る、というシンプルといえばシンプルな行事である。シンプルなんだが、闇に映える赤い火の美しさ、その火に吸い寄せられる人たちの集中感がなんとも魅力的で、数年前から毎年観にいっている。最初に観にいった頃は勝手がわからず、おすおすと遠くからお松明を見守り、それでも大いに感心したのだが、今年は勝手をやや得て、お松明が開始される約2時間前に近鉄奈良駅に到着。そのまま鹿にもみやげ物にも人力車にも目をくれず、ずんずん二月堂まで歩いて早速観覧ポジションを確保。あとは暮れゆく景色を眺めながら、我が新兵器・I-Podにてフォーレなど聞きながらひたすら座り込んでいた。
お松明は、そのビジュアル的な勇壮さ、美しさもさることながら、その火の粉を浴びたり燃え残った松の枝などを持ち帰ると「厄除け」になるとのことで、その「厄除けアイテム」採取に勤しむ方々にも人気のイベントのようだ。幸福を望むのは人の常。しかしながら、松明を振る人に盛んに「もっとこっちー」と叫んだり、奪い合うように燃え残りを持ち去る人たちを目にすると、なんとなく心の中に引き潮が生じてしまって、自分だって「ほしいなー」と思っていなくもなかった「厄除けアイテム」に対する熱意が急速に減じてしまうのは、私の幸福要求度がチキンだからなのだろうか。
チキンなだけかもしれないけれど、私の中ではこうしたアイテムを手に入れることは、あくまで「賜りもの」であって「要求」したり「強奪」したりして手に入れるものではないという気がしている。
(そういえば、私、ほんとに好きな歌手とかアイドルの楽屋待ちやサインをお願いするのって、したこともないし、なぜかする気も起きないし、できないんだよなー。それでも本当に欲しいとか、会いたいと思った方に対しては、そういうチャンスが訪れてくれたりするので、そういうめぐり合わせをある程度信頼しているのかもしれない)
ある方にお松明での光景のことを話し「信心深いのか、欲深いのか、わからないものがございます」と申し上げたら「両方なのではないでしょうか」との返答を頂いた。うーむ、両方かぁ。この二つが両立できるのって、すごいことかもね。この行為がそれをする人にとって、本人の気がつかない矛盾ではなく、しっかりと心に叶った行為であることを祈る。本人にとって sure な行為ならば、仕方がない。しかし自分の行為を問うてみたこともないうちに抱えている矛盾であるとするならば、それはいわゆるアレクサンダー・テクニークでいうところの、end-gainingってやつね。同じ行為でも、それを行う意味によっては、本人を生かしもすれば傷つけもするので、自分の行為には責任を持たないとね、と思う今日この頃なのであった。

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