えこひいき日記

2006年8月4日のえこひいき日記

2006.08.04

先日私の父親が歌舞伎デビューをした。あ、もちろん、舞台に乗るほうではなくて、観客としてである。

我が父は、けして芸術に対して拒絶的・排他的ではないのだが、自主的に積極的でもないという、我が家の文化の中では珍しい人物である。美術館に行っても「なにをみたらいいんやろ」と言う人なのである。
私の家は母が日本舞踊の名取り(ただし人を教えたりはせず、ひたすら自分の趣味で踊る)、叔母は茶道を教えたりもするし、祖母もお茶やお花の免状を持っていて、亡き祖父は詩吟などを嗜んでいたという、なんというか、芸事好きの家なのである。そのおかげで私は、人によっては「敷居が高い」と思ったり興味を持つ機会が単純に乏しくなりがちかもしれない伝統芸能にも、幼少期から比較的さりげなく触れる機会を得ることが出来たが、同時に芸事を好む家の中では私はもっとも「芸のない」人間の一人でもあり、「お琴しか弾けへん」というコンプレックスがあったりする。もっとも現在の日本のアベレージでは「お琴が弾ける(ちょっとだけだけれども)」というのでもけっこう珍らしいということは、一応知っている。アメリカに行ってから知ったんだけどね。
そういう中にあって、なぜ父が我が家の「芸事好き」に感染せずにいたのかの方が不思議なくらいだが、ともあれ父は主体的には全く芸術に興味を示さずにここまで来たお方である。その父が先日、ひょんなことから父の尊敬する人物と一緒に歌舞伎鑑賞をすることになったのである。チケットを受け取った日(鑑賞日から1ヶ月前くらい)から父は微妙にナーバスになり始め「わからへんかったらどうしよ」「なにをみたらいいんや」「居眠りをせずに観れるやろうか」などと口走ったりしていた。その様子を最初は微笑ましく聞き流し(見流し)ていたのだったが、たまたま鑑賞日前日に実家にて夕食をとっていた際にまた父がその“不安”を口にしつつ自らナーバスを盛り上げているのを耳にして、私はつい“親心”を出して父に言った。「みえるものをみえるままにみよし。そしたらきっと楽しめはるから」と。それでも父は「そうかなぁ」などと言い、そのまま日課の犬の散歩に行ってしまった。
そのように、なかなかにコトを案じていた父ではあったが、結果はシンプルにハッピーなものであったようだ。終演後にロビーで合流したとき父は(私も母とその公演を観に行っていたのだ。歌舞伎鑑賞のお誘いがあった際に父が自分の分しかチケットを申し込まなかったとことに対して、歌舞伎大好きの母がへそを曲げたので、私と母は独自にチケットを取って観にいくことにしたのである)「いやー、おもしろかった。身を乗り出してみちゃったよ。話が分からんとこもあったけどな」と明るい表情で話していた。その様子になんだか胸をなでおろしつつも、我が父ながら大変素直で素晴らしいと思ったのであった。先入観を外して物を見ることは実は難しいのだから。今後父が芸事に目覚めたオヤジとしての人生を開花させるか否かはナゾだが、ともあれ、素直にものを見ようとして「みることのできる」才能を持ち合わせる父を、私はなんだか嬉しく思ってしまった。

「ものをみる(みえる)」というのは視覚的な問題だけではなく、認識や観点の問題である。そうでなければ、父は美術館や劇場で「なにをみたらいいんや」などと悩む必要はないのである。みえているものをみることがいかに難しいかは、この仕事をしているとよくわかる。なぜここにある自分のからだのことが(正確に表現するならば「からだ」という認識でその存在を認識されているものが)こんなにもわからないのかと、悩んだり苦しんだり、肉体的にも精神的にも自分を追い詰め、結果的に傷つけるようなかり方ばかりしてきたクライアントを私は大勢みてきた。同時に、何分か前まではぜんぜん「わからないもの」だったそれが、少しずつ「わかるもの」に変わっていく魔法を何度もみてきた。「わかる」と「わからない」の間に何が存在し、何が両者を隔てているのかを何度もみてみたいと思った。でもまだ自分に何がみえているのかがわかりきらないでいる。少なくとも、明確に言葉やかたちにできるほどには。しかし存在を疑うほど何もみていないわけでもみえていないわけでもないような気がしている。

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