えこひいき日記

2007年9月9日のえこひいき日記

2007.09.09

謎の右肋骨の痛みについて「日記」に書きましたならば、いろいろな方からお見舞いのメールをいただきました。お心遣い、ありがとうございます。おかげさまで、痛み止めなしでも耐えられるようになってきました。しばらくしたら痛みも消えそうです。

ところで、2006年12月から半年連載した「Web草思」の原稿がページ上から「消えている」と書きましたが、「書庫」というところに掲載されているというお知らせをクライアントさんからいただきました(※2021年現在はリンク切れ)。ありがとうございます。というわけで、興味のある方はごらんいただけます。上記にもリンクをつけました。

話は変わります。
ひょんなことから龍笛を手にとることになった。笛にはなぜかすっごい苦手意識があったので、自分が龍笛を「吹いてみよう」という気分になったこと自体驚きなのだが、ともかく、吹いてみることになった。
フルートにしろ、篠笛にしろ、尺八にしろ、笛というのは音を出すこと自体がなかなかの難関。その辺りが弦楽器や鍵盤楽器、あるいは打楽器とは異なるところだ。音楽になるまでにはなかなかだが、弦楽器は一応弾けば音が鳴るし、鍵盤楽器もとりあえず鍵盤を押せば音が出てくれる。しかし龍笛はにわかには鳴らない。私もご他聞に漏れず、「とりあえず吹いてみてください」といわれて口をあててみたときには何の音も鳴ってくれなかった。「瓶の口を吹いて音を出すような感じで」といわれたのだが、個人的に瓶の口を吹いて遊んだことのない私には「どういう動作をせよ」といわれているのかがわからない。参考になるはずの「瓶を吹く動作」が想像がつかないので、とりあえずお手本を示してもらった。お手本の中に見た「何か」をまねて、再度笛を吹いてみた。すると音が鳴ってくれた。「すごいですね!音を出すのに苦労される方は多いのに、すぐに出ましたね!」と先生も喜んでくれた。
そうはいっても、まだスムーズに音が出るわけではない。ちょっと角度が狂うとかすれるし、まったく鳴らないことも多々ある。手の感じる笛の重さや角度、唇に当たる笛の位置感覚、上唇の位置感覚と息の量や強さ、息が通るルート、うまく音が鳴ったときの笛の振動などなど、感じ取りながら「音が出るときの感じ」を探っていくのだが、いわゆる「勘」「体感」が、まだまだばらばらで総合的に安定しないのだ。しかもロングトーンを吹くと、なんだか笛の振動だけでくらくらしちゃう。しばしば四つんばいになって休みながら吹く、という、変な個人練習をしてしまっている現状である。
龍笛の場合、息を吹き込む量によって音の高さを変えたりするのでこの感覚的なこところ安定してコントロール可能な状態にするまでには練習が必要だ。例えば、同じ指使いなのだが息を強く吹き込むことによって高い音を出すときに、そのイメージは「さんかく」だと言われた。「さんかく」・・・そのココロは?よくわかんないが、その意味するところのものをつかむべく、いろいろな三角を思い浮かべ、角をどっちに向けるとよいかとか、笛に対してどういう角度の三角にするかとか、イメージと動作を連動させながら「ここ」というツボを探っていく。こういう作業、意外と私、嫌いじゃない。

このように、同じ指なのに息の吹き込み方でピッチを変えるなど、龍笛の奏法は西洋の吹奏楽器とはずいぶん違う。また、楽(メロディー)の覚え方や楽譜にあたるものも、西洋のそれとはかなり違う。雅楽では、音楽を「楽譜に」書いて残す、「楽譜で」伝えるというような発想がもともとないのではないかと思う。基本的には口伝。暗記が基本なのだ。だから雅楽の譜は、既に練習を始めたものが自分の中の記憶を呼び覚ますための道具としては「使える」が、譜をみて初見で演奏するなどということはまず難しいと思う。なぜなら西洋音楽の楽譜とは違って、そこには音程の座標化などはされておらず、雅楽の譜にはカタカナや数字が縦書きになっているだけなので、それが何を意味するものなのかは判別できないだろうから。今の私にもまだほとんど「暗号」にしかみえない。

でも「暗号」にみえる、という感覚は本質的にそんなに間違いでもないのかも、などと思ったりもする。音楽や楽というものは、楽譜などの紙に書かれていることが「それ」なのではない。楽譜は、「音楽」という巨大な書物に挟みこまれた栞のようなものなのかもしれない。こうして書いている文字もそう。言語そのものが「なにか」なのではない。だから書物だけで「なにか」を知ったような気になるのは違うと思う。でも「なにか」を示す心強い道標にはなりえると思うし、そうあれ、と思う。

龍笛の練習なんぞしながらも、さまざまなことが頭に浮かぶ。楽の記録の仕方の違いから感じる文化の違いのことや、記憶という能力の使い方の違い、「知る」ということの意味などを考える。また、俗に「イメージする」とか「イメージをつかむ」という作業は何なのかとか、いろいろ考えてしまう。それはある角度から見ればその考えのストリームは「雑念」なんだろう。でも別の見方を許すならば、ふいに意外なつながりや共通性を見出す機会ともなる。だから私は「雑念」を許す。一つのことに関して、複数のことを考えることを許すことにしている。そのまんまでは自分が何を考えているのかもわからないので、「雑念」と呼ぶしかないと思うのだが、何かが見えるときもある。ちょうど、お手本を見て「何か」が見えることがあるように。自分でも何を見て、どう自分の動作に翻訳したのか自分でもよくわからないのだが、でも見ていないと見えないものが必ずあるという気がしているのである。

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