えこひいき日記

2008年2月1日のえこひいき日記

2008.02.01

私は贅沢が嫌いではない。「贅沢」といっても、ただお金を撒き散らすように使うのが好き、とか、高価なブランド品を無条件に崇拝し、そうした品々でよろいのように身を固めて「セレブ」と名乗って知らない人からもちやほやされたい、とか、そういうことではない。私にとっての「贅沢」って何だろう、と考えてみると・・・究極的に言ってしまえば、好きなことが好きなようにできること。好きなものを好きでいられること。うーん、身も蓋もないかもしれない。欲しいものしか欲しくないと思って生きてきたが、それは今後も変わりそうにない。だからこの「贅沢」は「特別」なときにだけ思う何かではなく、私の「日常」。「日常」なんだけれども、それが「贅沢」なことだということも、私は知っている。「日常」は「贅沢」であるべきだし、「快楽」であれ、と思っている。

しかしながら(自己弁護するわけではないが)「快楽」と「お気楽」は似ているようで全然違う。好きなように生きていく「贅沢」のためにはそれなりの「努力」が必要だし、お金の高だけをバロメーターにはできないものの、お金とも無縁ではいられない。だからといってお金を得るためだけにやっきになるのは本末転倒。やっきになることの、集中感覚にはつかの間の「忘我」の快感はあっても、それは「快楽」とは違う。「贅沢」にはバランス感覚と自己管理が意外と大事なんである。
好きなことを好きなように「しやすくする」ために「便利さ」というやつは、まさに便利である。例えば、近所にコンビニがあって、ちょっと買い忘れちゃった品なんかが行ったときにちゃんとあること。宅配の時間指定が守られること。ちっちゃいことといえばちっちゃいことなんだが、このちっちゃいことの破綻で結構イライラしたりすることがある。そのイライラのせいで私の「日常」は乱されたりする。あれ?私は何でイライラしてるんだっけ?「便利さ」って重要かもしれないけれど、私の求めているものって、それメインじゃないよね?望むものを実現「しやすくする」ためのアイテムではあるが、望むものそのものではない。なのに私の「日常」は、私の大好きな「贅沢」は、たやすく「便利さ」に乗っ取られそうになったりする・・・・

ということを、中国の冷凍餃子問題のニュースを見ながら考えた。

いや、この問題において直接的に考えるべきは、メタミドホスという劇物が食品にいつ、どのようにして付着・混入したかであって、冷凍食品の是非とか、中国製品のうんぬんではない。
しかしながら、「贅沢」と「日常」と「冷凍食品」はあながち無関係でもない。
劇物がいつ付着したかという問題の向こうには、海外からの輸入食品で食卓を満たしている日本の「日常」の問題、ひいては「食」を含めて他者に自分の命の存続(の一部)を依存しないと生きていけない「日常」を生きる私たちが、他者をどのように信頼するか、他者と関わる自己をどのように信頼するかという問題が立ちすくんでいるように思う。たぶん、私はそっちに関心があるから、そっちのほうをつい考えてしまう。

冷凍食品がある生活。冷凍食品、「便利」。お値段がお安いことも「便利」。その、「便利」がある生活に慣れすぎると、それが欠けることを「損失」のように思ってしまう。実は本質的には何も「損失」していないんだけど。「便利」は「あったらいいもの」から、「あって当然のもの」、「それがなぜ必要かを問わない、こだわり」のようなものに変質してきているのかもしれない。からだのことでも、よくある。何でこんなことしているのかわからないのに、いったん「習慣化」「こういうもの」というブラックボックスに収納されてしまうと、もうその行為の意味や存在の意味は問われないということ。それで自分のからだやら可能性やらをじわじわ圧迫していくことって、ある。いちいち思考しなくてもできること(「マニュアル化」「パターン化」「習慣化」)は、ある意味「便利」なのかもしれない。確かに世の中には「便利」ということが存在価値であるアイテム(プロダクト)も少なくない。便利さを取ったら意味がなくなるようなものも、ある。

余談だが、私は餃子が大変に好きである。小学生のとき、原因不明の眩暈と運動機能不全で入院したときも、眩暈のために吐き気が止まらず、点滴で命をつないでいる最中なのに「餃子が食べたい」と思っていた。どうしてなんだかわからないけれど、「退院したら食べてやるー!」と思っていたのが餃子だったのである。実は有毒物質が検出された冷凍餃子のニュースが流れた日の朝も、偶然餃子を食していた。問題の餃子ではないものだったが。

とはいえ、餃子のない生活なんて・・・というほど、私は餃子に執心していない。薄情でごめんね、餃子。そして冷凍食品にもこだわりはない。ないと困るということでもなければ、あることが疎ましいと思ったこともない。

そのように書くと「それはあなたが恵まれているからだ」という人もいるかもしれない。「だから、便利な冷凍食品のありがたさ、毎日食事を作って家計も守る人間の大変さがわからないのよ」あるいは「ほら、どうせあれでしょ、アレクサンダーの先生だから、自然食とかにこだわっていて、どうせ冷凍食品とか馬鹿にして食べないんでしょ」とかね。

確かに私は働きながら子育てをする人間でもなければ、家計を切り盛りしながら大家族の食事を毎日作らねばならない主婦でもない。冷凍食品ばかり食べるのと、生鮮食品も食べるのと、どっちがコストがかかるのかは知らないが、冷凍食品にさほど依存しないでよい生活を送っていることは事実である。それを「恵まれている」といってよいのかわからないけれども。
「でもぉ・・・」と私は言いかけて、心の中でしばし反論の仕方を吟味する。
言ってしまいやすいのは「いえいえ、私だって冷凍食品、食べます」なんだが(そしてそれは事実なんだが)、私が冷凍食品を食べる人間か否か、ということはこの場合、問題の本質ではない。私がここで向き合っているのは「自分と同一の行動や意見を持たない人間は、自分にとって異物、敵である」という方法で「和(輪)」を保とうとする「きめつけ」なのだ。集団生活をし、社会を形成していると、こういうことはよくある。内田樹さんの『他者と死者』の中にも少し出てくるのだが、「いいお天気だね」「そうね」、みたいな会話がなぜ行われるのかは、会話の内容が重要なのではなく、「同意」という態度の意味性によるところが大きいのだ。好きな相手に「そうね、そうね」といっているうちはまだいいのかもしれないが、「敵」にならないため、作らないために相手に同調するのって結構ストレスになる。だって、本質的には妥協に過ぎないんだもん。だから、「同じ」ことで苦しんでいない人間、ストレス・フリーな発言をする人間が出現すると腹立つんだと思う。
そういえば、昔、いわゆるフェミニストのおねえさまがたに「あなたは女のくせに女の悲しみがわかっていない」と怒られたことがあった。女はこうなのに、男ときたら・・・とおっしゃるかたがたに対して、私が能天気に「それって性別だけの問題ですか?」と言ったのが引っかかったようだった。私は彼女たちのことをけして嫌いじゃない。でもやっぱり、それって「男だから」とか「女だから」の問題じゃなかったように今でも思う。

「私だって、あなたのように恵まれていたら冷凍食品なんて食べませんよ」と相手は言いたいのかもしれない。では彼らが私の中に見る「恵まれている」「自分達とは異質」というのは何なんだろう?「冷凍食品」?本当にそうなのかな。
冷凍食品を食べても食べなくても、一見違う生き方のように見えて、本当はけっこう共通したものを大事にしているような気もするんだけれどな。

いかん。脳内で妄想討論会をしてしまった。

「いのち」は大切、と、学校で習ったような気がする。しかし「いのち」がどうして、どのように大切なのかまでは、詳しく教えてもらえなかったような気もする。そんなこと、「あたりまえ」で、語るまでもないと思われたのだろうか。そういえば、正確な言葉で思い出せないのだが、昔、ある会議で「それをいのちと感じられるものは、自分との関係性を見出せるものに限られる」という言葉を聴いたことがある。日本のどこかで毎日誰かが亡くなって、そのニュースを見ても「これが人の命の問題だ」とぴんとこないこともあるが、街角で時々遊んだことのある子犬が死んだとしたら、人の心は裂けそうにならないだろうか。「じぶん」と「それ(他者)」が違う存在ながらどのように関わっているのか、それを知ったときその存在に「いのち」を見出せるものなのかもしれない。
他者と自己の間に望む「和(輪)」を、「保障」とか「責任」「管理」でしか取り結べないとしたら少し悲しい。賠償金を請求されるからちゃんとやろう、とかじゃなくて、そのプロダクトの向こう側にいる人の存在を、自分と同じ、あるいは自分が大事に思う誰かと共通する「何か」(それを「いのち」というのかしら?)と想像することができたら、「管理」という仕方に頼らなくても「何か」に向き合えるのかしら。
「賠償金」とかだと臨場感なくても、例えば「ほかの人から変に見られるからちゃんとしよう」とか「ほら、怖いおばちゃんに起こられるから、ちゃんと座りなさい」などという言い方でしか子供に注意しない親など、見かけることがあるだろう。どうして私、直接自分の子供をしかれなくて、「怖いおばちゃん」パワーを借りなくちゃいけないんだろう、とか、どうして自分がどうしたいかじゃなくて、「ほかの人」の「変か、変じゃないか」ジャッジ越しに自分を見ているんだろう、って考えてくれたら、うれしいと思う。他人の私がうれしがるのも変なのかもしれないけれど。
こうしてパソコンの前に座り、部屋に一人でいたとしても、私一人では、一人でいることすら快適にできない。見も知らない誰かがちゃんと、パソコンを組み立ててくれたから私はこうしてパソコンを使って文章を書き、電線を張ってくれた人がまじめに配線してくれたから、事故もなく電気が使えている。たとえ一生会うことがなくても、ありがとう、感謝しています。見知らぬあなたが自分の仕事に「日常」的な、「普通の」誇りを持って全うしていてくれることが、見も知らない私をすごくすごく助けています。時々そういうことを忘れるんですが。ごめんなさい。
なるべく覚えて、生きていくようにします。

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