えこひいき日記

2008年4月10日のえこひいき日記

2008.04.10

また夢をみた。

ある知人が京都まで私を訪ねてきてくれるという夢だ。久しぶりに会うので嬉しくなり、「お茶でも」と二人で座った座敷はなぜかどう見ても高台寺の庭を望む部屋(貸切?)。だが私はそこが自分の家であるかのように振舞っている。夢の中でそこを「高台寺の庭だ」と思う認識があるのに、同時に「自分の家」とも思っているのだから、不思議な意識である。話の途中でちょうど餡入りの草もちを買ってあったのを思い出し、「用意しますね」と席をはずしている間に、知人はいなくなってしまった。仲居(?)さんに声をかけて聞くと、「お客さんなら、お風呂に入りにいかれましたよ」という。しかも、夢の中で「風呂」とは、宇治の萬福寺のサウナのようなお風呂ということになっている(だが、夢の中で思い描いている映像は、確か奈良・東寺の風呂の様子なのだ)。高台寺と萬福寺は遠い。なのに、同じ邸内のお風呂を使うような感覚で普通にそう思ったり、言ったりしている(だいたい、話の途中で勝手に風呂に入りに行くこと自体が、あんまり普通じゃないんだけれど)。ここにいたって私は夢の中で「これは夢なんだな」と思った。そう思ったとたん、目が覚めた。

今朝、あるニュースを見たら、その知人が関連していないでもない記事が掲載されていた。虫の知らせ、みたいなものってやつは、いつもこんな感じでやってくる。やれやれ。わっかりにくーい。

ところで、からだとは人にとって何なんだろうと思うことがある。

私と近しくしてくださっている人たちの中には、私が突如うちの猫を指して「メフィー(うちの猫の名前)とそれ以外のメフィー」とか「世界と、それ以外の世界」などとつぶやくのを耳にしたことのある人もいると思う。「どういう意味?」と聞かれても上手に言語化できないので無言を通すことが多いのだが、最近「それとそれ以外」の関係について考えることがまた多くなった。

私のところには何らかの身体的問題の改善を目的にレッスンを受けにやってくる人は少なくない。例えば、腰痛とか肩こりとか。私がお役に立てる「腰痛」や「肩こり」の状況とは、それが発生・持続している原因が、本人の意識・知識・認識に起因する「からだの使い方」の不適当にある場合である。だから、その人が自分の認識や意識を変化させること、新たな知識を迎え入れることが、できる状況にあるか否かが、今その人にレッスンを行うことが適切かどうかの判断基準になる。

ひとくちに「腰痛」や「肩こり」といっても、それが単一の原因、同一の状況であるとは限らない。極端な例かもしれないが、ある女性が「習慣化した腰痛」の改善を目的にレッスンに来てくださったのだが、話を伺い、からだを触らせてもらうとどうも様子が違うので、「まず病院で検査を受けてきてください。何もなかったら、何もなかったでいいんで」と説得し、病院に行ってもらった。すると内科的な病気が発見された、ということもあったりする。こういう場合、当然ながら優先されるのはレッスンより病院での治療である。内科的・外科的に危機的な状況を脱してから、更なる状況の改善や再発防止などの意味でこの「腰痛」に対して何らかのアプローチをすることは考えられるので、そういう順序を提案したりする。
そういう説明をすると、その女性は「えー、腰痛って、腰痛じゃないんですか?!」と言っていた。そうなの、腰痛って、「腰痛」とは限らないのよ。つまり、あなたの感じている、この「腰痛」なる症状が、あなたの思っている(カテゴライズする)「腰痛」なるものと一致するのかは、わからないのだよ。正確には、あなたが「腰痛」を感じた時点では、それがあなたの言う「腰痛」なのかどうかは「未確定」なの。ただし、それはあなたが「腰痛」を感じていないとか、「腰痛ではないものを腰痛だと嘘を言っている」と言っているのではない。何が、何で、どう違い、どう一致しているか、自分の思い浮かべた「腰痛」なる既成概念や既存の知識やイメージにとらわれすぎず、ちゃんとその内容を見てみなければ、わからないのだ。「それ」は確かに「それ」なんだけれども、「それ」が「何」なのかは、すぐにはわからないのだ。
というわけで、ひとくちに「○○」といっても、その対処は人と場合によって同じではないし、まず何をすべきかの順番も違う。だから、私のところにくることが優先順位の一番に該当しないと判断した場合は、上記のように「レッスンより、まず病院に」とか、「まずちゃんと食べて」とか「まず休みなはれ」とか「家族と話し合え」とか言わせてもらうことにしている。あるいは、本人が「腰痛で困っているから、腰痛を改善する方法を教えろ」と言ってきても、腰のことには触れず、全然違う部位の話をし始めることもある。もちろん、相手への嫌がらせでそんなことをするわけではない。本人が「腰の問題」と認識していることが、実は「腰以外の問題」から生じていると判断してのことである。
そんなわけで、私は時折相手の予想(希望?)に反するアドバイスをすることがある。あるいはレッスンを断る場合もある。多くの人が驚きながらも納得してくださるが、何割かの人は「えー、せっかく来たのに」みたいな顔をしたり、言ったりもなさる。
その気持ちも分からないでもないが、でもそれって、「私が言ったことの内容」に対する不納得感ではなく「自分の立てた予想が外れたこと」「自分のしたことがダイレクトに結果に結びつかなかったこと」に対する不満なのね、と思う。それって、例えば、カレーを作ろうとしていて、つい野菜炒める前にカレー・ルーのパッケージ開けちゃったんですけど、今手に持っているこのカレー・ルー、もう鍋に入れちゃっていいですか、みたいなことなので、やはり「後で」と申し上げるほうが現実的というか、建設的じゃないかと判断するのだ。野菜を炒める地味な作業より、カレーのにおいをぷんぷんさせているカレー・ルーを用いる作業の方が、「カレー作ってるっぽい感じがする」ので、早くやりたくなっちゃうのは分からんでもないが、物事には必然的な「手順」というものがある。それははしょらず、踏むべきであると私は思う。でないと、喰えないカレーを作っちゃうことになるからね。その挙句「カレーって、まずい」とか「このカレー・ルー、最低」とか「私って、料理下手」とかの、いずれに決め付けられても、だれも幸福にはなれないし、材料も時間も無駄になっちゃうんである。
念のため書いておくが、私は「カレー」の話しをしているようでカレーの話をしているのではない。「カレー」の話をしながら「カレー以外」の話を(も)しているのだ。

「せっかく○○したのに」と、「(単に)してしまった行動」を「払った努力」のように思う人もいるけれど、その行為や認識にとらわれることのほうが順序や効率を狂わせ、かえって望むものから自分を遠ざけてしまうこともあるので、注意。

閑話休題。

んで、最近とみに気になってきたのが「せっかく○○したのに」とか「え、これってこうするものじゃないんですか?!」と言い張る人たちが抱いている世界観の成立の仕方である。
なぜ、彼らはこんなにも信じ込めるのだろう?なぜ既存のやり方やその考え方によって起こっている事態なのに、そのやり方に目を向けて考えることなく、そのままやり続け、信じ続けようとするのだろう?なぜ、現に痛みや不具合やうまくいかなさを感じているのに、その「感じていること」を「不満」以外のものとしてとらえないんだろう?
なぜ、自分の「知っていること」の範囲に世界が収まらないことを、彼らはこんなに嫌がるのだろう?なぜ自分が「わからないもの(こと)」がこの世に存在することをこんなにも怯えるのだろう(「わからないこと」が在る、と知る前からその「わからないこと」はこの世に存在していたというのに)?なぜ、自分の「予想」が外れたことに対して、事実以上に傷つくのだろう?
なぜ、今のやり方を一旦ストップして、考えることができないのだろう?なぜ、止まることをこんなにも怖がるのだろう?
どうやら彼らが私が大切にしているもの以外のものを大切にし、私にとってリアルなもの以外のものをリアルに思っているらしい。
でも、違うものを大事にしていることが、彼らと私との違いの要ではない。
もしも私と彼らに違うところがあるとすれば、彼らには自分の「それ」しか見えておらず、私には自分の「それ」の他に「それ」が存在することを知っている、ということだけだと思う。そんな気がするのだ。
「同じ」でなければ理解しあえないとか、仲良くなれないなんて、私は思っていない。でも、「違い」を、「違う」と認めると同時に、排除路線ではない態度で受け止める態度がなければ、厳しいだろうとは思う。

ここにも個人レベルのチベット問題が存在し、ちっちゃいコソボ問題が存在しているような気がしてしまう。結局、世界で起こっていることなんて、人間の中で起こっていることじゃないか。

閑話休題。

個人レベルのコソボ問題に話を戻す。「からだ」とは、人間の何なんだ、という話である。
あるクライアントさんが、困り顔でこんなことを言ってきた。「最近、どこも痛くなくて、仕事ができちゃうんです」
「痛くない」のに「困り顔」とは不可解な、とお思いだと思うが(私も思った)、その方が言いたいことはこういうことなのだ、「私は、いつ、どういうきっかけで仕事をやめればいいんですか」
その方は自営業者である。だから仕事のスケジューリングはかなり自分の自由というか、自分の意思と判断で行わなくてはいけないのだが、今までの「仕事のやめ方(切り上げ方)」とは、「からだのどこかに痛みを覚えて続けていられなくなったから、やめる」というやり方だったらしいのだ。しかしながら、「からだの使い方」が改善されて、その人は痛みを感じずに仕事を継続することができるようになったので、仕事の切り上げ方が分からなくなった、というのだ。つまり、本人は「痛いの、やだ」と言いながらも、いつの間に「痛み」をタイマーのように使い、「このタイマー」なしでは仕事の進み具合を決められないほどに依存してしまっていたのだ。恐らく、痛み以外のもの、自分の意思や判断で仕事の中断や継続を行ったことがないんだと思う。仕事を切り上げるという、後ろめたいこと(?)を「からだ」のせいにすれば、「意思」のせいではない。つまり、「私の責任じゃない」ようにできていたのだが、今後はそうは行かなくなった、というだけの話なのである。
今までの「からだ」以外の「からだ」を知ること。「からだ」の自由が利くようになること。ここからが本当の自立の始まり。
口では「嫌だな、私は仕事続けたいのに、痛みのせいで続けられない」と文句を言いながらも、実は「(からだの)痛み」という「タイマー」頼みだったせいで、その人は仕事のスケジューリングに関して、他のバロメーターを持っていない。そのバロメーターを作っていくのが今後のレッスンの課題である。
私が「コソボ」と思うのは、何を「からだのせい」にしてきたか、という問題である。それは本当に「からだ」の問題だったのか?もちろん、からだの問題でもある。でも、それだけではない、のではないか。

そのクライアントさんと話していて、ふと別のクライアントさんのことを思い出した。
配偶者が自分にしていた行為がいわゆるDVだったと医師に言われた、とその方は話した。「私、悪くなかったんです」と、その人は言った。とても嬉しそうに。覚えている限りで、約1時間のレッスンの間に5回以上「私は悪くなかったんです」と言っていた。彼女が自分の内面に気がついたときに見せる涙と、配偶者の位置づけに成功したときの嬉しそうな顔の、その中間のない彼女の表情が今もって私の印象に残っている。
その人は、普段はいわゆる「自分を責める」タイプの人である。表面的には、人の話を注意深く聞くし、物事に熱心に取り組む努力家であり、できないことがあってもぎりぎりまで他人を責めず、「私の努力が足りない」という意味のことを言う。配偶者のことも、これまで一度も悪く言ったことはなく「すごく夢のある人だ」などと言っていた。「その人に認めてもらえるよう、がんばる」などとも言っていた。私はその「ずーっと日向しか見せないような態度」が気になっていた。それとなく、「日向以外」に目を向けるよう促したりもしたが、そのたびに「発見があった」「すごく勉強になりました」などと殊勝な返事はするのだが、その内心を言葉通りに受け取りきれない感じがしたりしていた。まるで、私は深い井戸に小石を投げ入れたと思っていたけれど、小石はどこか別のところに吸い込まれていった、というような感じが時折残った。
努力家であるその人は、白黒にこだわる人でもあった。「ちゃんとやりたい」「やるからにはちゃんとやりたい」という意味の言葉を、私は何度も彼女の口から聞いていた。「みため」や「からだ」にも気を使っていた。ファッションにも気を使い、スタイルの維持にもこだわり、最新のトレーニング方法といわれるものも、はしごをしていた。同時にこだわっていることを見せない努力もするような人だった。
けして悪い人ではない。むしろ、とてもよい人なんだろうと思う。だが、一旦憎しんでしまえば相手に対する反発も容赦なくするが、自分が大事にしているものを、大事にしたまま少しだけ変えたりすることが、彼女にはできない。どうしても白黒がついてしまう極限状態まで、相手も自分も追い詰めてしまいがちなのである。止まることも、白黒つかないことも、「ちゃんとしていない」「いいかげん」に思えてしまうのだろう。

「正しさ」とは何なのだろう。「正しさ」にこだわることが、実は自分とは「違う」ものを持つ人間を「悪」としてしまうことに通じるならば、「正しさ」もまた罪深いことではないのか、と思う。
しかし本当は知っている。罪深いのは「正しさ」ではなく「それにこだわる、こだわり方」のほうであることも。でも「このやり方」ですることが「正しいのだ」と、信じ込んでいる限り、「正しさ」と「やり方」の問題は癒着したまま心中するしかないと、思っちゃうんだろうな。だからその「正しさ」と「やり方」は、「離婚」して。「心中」する前に、そうするくらいの勇気を持って「離婚」したほうがいいと思うの。

実は「たくさん」よりも「少し」変えることのほうが、難しい。そして「少し」は「たくさん」よりも気づかれにくい。
でもけっこう、この「少し」って威力ある、と私は思っている。

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