えこひいき日記

2010年10月8日のえこひいき日記

2010.10.08

うちの猫、メフィー(Meffy)の死に際して多くの方からお悔やみをいただいた。ありがたいことである。家族や友人からはもとより、クライアントさんからもお花を贈っていただいて、つい最近まで私が花を買う必要がないほどであった。奇特な猫。私が死んでもこうはならないんじゃないかと、本気で感心した。感謝である。

先週、血だらけになったキャットタワーを解体し大型ごみに出した。猫がよく座っていた肘掛け椅子は友人にもらってもらい、大量に残った猫のご飯は、猫を飼っているクライアントさんにもらってもらったり、沖縄の猫カフェに送ったりした。お花をいただいた方々へのお礼やお返しを用意したりということも、先週集中的に行った。

そんなことをしていたせいかもしれない。先週が精神的にけっこうきつかった。仕事から家に帰るときに、なぜか「家で猫が待っている」ような感じがしてしまうことがあって、どうしていいのかわからない気持ちになった。
猫が死んだ週(2週間前)は、心身ともに張り詰めていた。普段は睡眠不足が死ぬほど響くタイプなのだが、まる2日間、ほとんど眠らずに部屋の模様替えやら掃除ばかりしていた。そのくせ、ほかの事はまるで手に付かないのだ。仕事を終えて帰ってきても、山ほどある仕事には全く手がつけられず、ただ座ってボーっとしていた。座ってぼーっとしているか、掃除しているか。多分、私は行為の中で自分を忘れたかったのだと思う。そして何という感情の動きもないままに涙が出てくる。部屋に帰り着いた途端、涙が出てきてそのまま夜中までずっと涙を流していることもあった。おかげで、尾篭な話だがトイレに行く回数が減った。涙ってやっぱり体水分なんだな、などと妙に感心した。食事は、全く食欲はわかなかったが、食べないとクライアント業務に耐えられないので無理やり食べていた。でも無理が過ぎると吐いてしまうので、数日間は2日で3食ぐらいのペースだった。
その時期を過ぎ、食べられたり眠れたりするようにもなってきたし・・・というところで、「帰ったら猫が居るんじゃないか」みたいな感覚がリアルになったことで、私は混乱した。明け方見る夢にも猫が出てきて、かりかりと、窓辺でご飯を食べていたりする(つまり、これは死の直前ではなく元気なときの姿)。切なくて、やはり泣きながら目が覚めてしまう。

そんな中、ある人からのメールで「浸りすぎてからだを壊されませんように」との言葉をいただいた。「浸る」という言葉に、何かそぐわないものを感じた。「浸る」?いや、多少語彙の差があるのかも知れないが、私にはむしろ「浸る」ということが足りなかったのではないか、とこのとき思った。
私は早く「普通に」振舞おうとしていた。早く不在に慣れようとしていた。まるで以前から「不在」であったかのように。考えてみれば不自然な話だ。その不自然な行為がかえって気持ちに拮抗状態をもたらしていたのではないか・・・。いや、私はただ苦しみや悲しさから逃げたかっただけなのかもしれない。向き合うべきものから逃げ出したら、向き合うまで憑かれるだけなのに。ま、いずれにしろ、「長引く」「抜け出せない」という意味においては浸ろうと浸るまいと、相手が心配してくださった通りのことが起こるわけだ。

不足も、過剰も、人を救わない。力になれるものがあるとすれば、適切、だけ。

夜、ひとりになって、深呼吸を一つして、「在った」ものが「ない」、「なくなっている今」と向き合ってみることにした。向き合って感じてみると、感じられたのは「不在」の空虚さではなく、それは確かに在ったのだ、という「存在」の確かさだった。「それ」は確かに「在った」ものだ。「在った」ことはなくなった今でも消えない。逆説的だけど。そして、「それ」が今も変わらずに「在るべきもの」とは感じられなかった。そんなことを感じる私は冷たいのかもしれない。でも嘘はない。全ては変わる。全ては移る。そのことが寂しくないわけでも悲しくないわけでもない。むしろ、張り裂けそうなくらい悲しい。でも寂しいから、悲しいから、みない、というのは、違う。私は多分、そういう生き方を選んでしまっている。

関係ないのだが、自宅のトイレにおいてあるウィトゲンシュタインの本をぱっと開けたらこんな一文が飛び込んできた。

「お前が何なのかを暴きだせ」

私は自分に嘘をつきたくない。それがどんなに扱いにくい私であっても。

支離滅裂なようだが、そう思ってしまうと、
死によって離れるものはあるが、全てが離れるわけではない
と感じられた。当たり前のことなんだけれども。他の、たくさんの「身近な死者」と同じ。そう本気で思えた途端、無条件に流れ続けていた涙が止まった。
私は今も、猫の「存在」に支えられている。

こんな私的なプロセスをHPに書き綴ってしまう是非を自らに問わないわけではない。読んで楽しいお話ではないと思うし、人によっては何の共感も覚えず、馬鹿らしいことかもしれない。
理由になりそうな理由としては、猫のことを知っている方々に顛末を個々一からお話しするのが辛いから、というのはある。料金や予約時間のお問い合わせにいちいちこたえるのが大変で、HPに基本情報を公開しておいて自由に見ていただく、というのとコンセプト的には同じかも。そこを前提として、次のお話は個別に・・・という感覚はある。
でも、それだけではない。私が書きたいのは「逆らえないものに向き合いつつ、何が出来るか」なのかもしれないと思う。どんな人でも、どんな努力をしても、免れ得ない出来事が、この世にはいくつかある。例えばこういう、愛するものとの死別、というのもそうかもしれないし、この肉体を与えられて生きる、ということもそうかもしれない。自らの努力によって育てられるものがある一方で、自らの身体ながらどうしようもないことがある。でも、それは果たして純粋に不幸なのだろうか。どうしようもない。悲しいし、傷つくこともあるかもしれない。でも、それでも・・・ということを、私なりに書きたいのかもしれない。目的を先に設定してストーリーを作り上げているつもりはない。しかし希望することはある。希望を抱いてあがいても、どうしようもない結末を迎えるかもしれない。それでも・・・ということを、私は追える限り追ってみたいのかもしれない。
書いてみて思ったけれども、生きることも死ぬことも、どうしようもないんだよね。生きているのも死んでいくのも自分だけどさ。でも、出来ることも在る。そのどちらからも私は目を背けたくない。

ところで、文明の利器というのはすごい。
うちには最近仲間入りしたブルーレイ・レコーダーというものがあり、先日からそこのHDDに友人が撮りためた猫の写真をせっせとコピーしてくださっているのだが、その数、約2千枚!に、にせんまい、って・・・同居しているわけでもない、完全室内飼いの(つまり、背景やらロケーションが変わるわけではない)他人の猫を折々せっせと2千枚撮り続けさせる気にさせるものって、なんなんだろう、と思う。つくづく奇特な猫である。奇特な人間でもあるが。私は写真で記録する趣味がほとんどないので、とにかく感心するばかりだ。動画はカウントに入れていないので、それも入れてもらうと凄いことになりそうである。
現在、自称「メカ設定マニア」でもある撮影者の友人が写真を年代別に分類し、せっせと「完全版」製作に勤しんでくださっているところ。完成した後、それを私が毎日見るかというと、きっとそうではないだろう。でも、そういうものが「ある」ということも、きっと私の背中を支えると思う。

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