えこひいき日記

2010年10月18日のえこひいき日記

2010.10.18

昨日、猫の納骨をしてきた。
私が猫の火葬を依頼した動物霊園では、年に二回ほど提携しているお寺での法要を案内してくる。その際に希望すると共同の慰霊塔に納骨を受け付けてくれるのだ。
納骨の時期については、少し迷いがあった。この秋の納骨ではなく、来年の春まで手元に置こうと当初は思っていた。周りも「しばらく手元に置いてあげたら」と言ってくれていた。でも、考えた挙句、今回の納骨を決めた。

猫が逝った直後から、私は家具の配置を換え、猫の持ち物を箱の収納し、一部の家具などを処分した。
その後も時が過ぎるに従って変わっていったことがある。例えば、猫が闘病中だったときには漂白剤を使って洗っても落ちなかったシーツに付いた猫の血が、その後洗濯を重ねるほどに薄れていって、今ではほとんど血の跡がわからないくらいになったこと。
他にもある。
猫が居なくなると床はびっくりするくらい汚れなくなったし、カーペットに“コロコロ”をかける回数もめっきり減った。ベランダの網戸をすぐ閉めなくてもゆっくり植物たちに水をあげられることや、猫の眠りを妨げないように掃除機を取り出す気遣いをしなくていいことも、あれから変わったこと。
そうして変わってくるものがある一方で、掃除しても掃除しても、不意に猫の痕跡に出くわすことがある。ガラスに残っていた小さな血の飛沫や、衣替えで出してきた冬物の寝具についていた細い猫の毛や、家具の隙間から出てくる猫の抜けたひげなど。広大な家に住んでいたわけではないし、猫を立ち入らせないようにしていた場所など作っていなかったので、猫の気配や痕跡がない場所などない。いたるところに今も猫との記憶と気配があるのはとても自然で普通なことだった。

猫の血の跡を見つけると、正直切なくなる。でも、同時に思うのだ。「ここ」に猫は居ない。こんな血の跡などに猫は居ない。毛やひげや抜けた爪を見つけると、血の跡よりはいとおしい気持ちになる。でも、「そこ」に猫は居るのだろうか、と、やはり思うのだ。そうしたものを見つけるたびに、私はそこに何かを探そうとしている。あるいは、確かめようとしているような気がした。何を探したり、確かめようとしているのかをうまく表現することが出来ない。あえていうなら、今の猫の居場所、のようなもの。私の中の、どこに今猫は居るのか。
何かに執着しすぎることが、かえって今の猫を見失うことにならないかを私は恐れた。猫との関係は、これからも続くのだから。

そんなことを考え、迷い、この時期の納骨を決めた。決めてからもまだ迷った。これでいいのか。これでいいのか。法要の朝も、まだ迷っていた。迷ってはいたが、止めようとは思わなかった。私の迷いは、多分「これが“間違いではないこと”であってほしい(でも確信はない)」という、願いや祈りのようなものだったのかもしれない。

法要には猫の看病を手伝っていただいた人にも来ていただいた。法要は合同のものなので、寺にはたくさんの人がほぼ平服で集まってきていて、人間の葬儀とはちょっと違う雰囲気。
ある考えによれば、人間よりも動物のほうが下等なのだという。動物に生まれることのほうが人間に生まれることよりも徳が低いことなのだという。
その徳の差によって、人間のときは礼服でかしこまり、動物だから平服なのか、というと、それは違うと思う。その動物と「家族」になれた人間は、いつも「素」で付き合う。参列者の「平服」はそういう関係の現われのように思えた。
彼らとの生活は、人間同士の付き合いのように言葉や服装で装うことはない。そういう「決まりごと」のコードで伝えたり偽ったりすることが通用しない。下等だから通じないのではない。犬や猫にとっては、飼い主の人間がどんな値段やドレスコードの服を着ているから、とか、何語(英語とか日本語とかいうこともそうだが、敬語とか、ため口とかも)をしゃべっているからなどということは関係ないのだ。そうしたものが通じないからこそ、通じる何かがある。とはいえ、「コード」が通じないから人間にとっては高価なよそいきやとっておきの服を汚されちゃって「わー」みたいなこともあるんだけれども。でもそれだって、困るといえば困るが、当事者同士にとっては、本質的には結局どうでもいいことなのだ。
考えてみれば不思議なものである。種として同じであるからつながれるというものでもなく、種が違うからつながれないというものでもない。種の違う「家族」に見出したつながりは、同種の家族(?)や友人とはまた違う、なんだかとんでもない「縁」なのかもしれないと思う。からだの大きさも、寿命の長さも、食べるものも違うけど、けっこうすごいものが「同じ」なのかもしれない。
絶え間ない読経を聞きながら、こんなに多くの人たちが「家族」として犬や猫たちを想い、追善供養などもされるのだと思うと、よそ様のことでもなんだか嬉しい気がした。手伝ってくださった方も「なんだか、阿弥陀様が幼稚園児を引率するみたいに犬や猫たちを“こっちだよ”と連れて行ってくれたみたいな感じがした。よかった」と言ってくれた。

法要も納骨も淡々と終わり、どうというドラマティックなことがあったわけではなかったが、気持ちはすごく落ち着いて、さっぱりした。
「さっぱりした」などというと、納骨ということをして手元からモノがなくなったことを「すっきり」と言っているように聞こえるかもしれないが、そうではない。「納骨」が行為として重要とかいうことを言いたいのでもない。それがその人にとってふさわしいあり方であるならば、納骨うんぬんにせよ、なんにせよ、してもしなくても、「いい」ことなのだと思う。
「ふさわしいもの」。私が探していたもの。形を取るが、形ではないもの。これからも続くこと。
そのかたちがたまたま私にとってはこうであったようだ、ということだけである。

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