えこひいき日記
2011年3月5日のえこひいき日記
2011.03.05
新月。月のない夜が晴れであるのは嬉しい。星がよく見えるから。
今朝、なぜかせっせと猫トイレを掃除している夢を見た。こういう夢、最近も見たな、と思って自分の個人日記を調べたら、先日の満月の日だった。だから何、という話ではない。少なくとも、現段階ではいえない。次の満月のときも、もしも猫トイレを掃除している夢を見たら、何かあるかも、と思うだろうと思う。でもだからといってそれが何であるかわかるわけではない。わかんないけれど、おもしろいな、とは思う。次回が楽しみ。
先日東京から久しぶりにいらしたクライアントさんから、亡きメフィー(うちの猫)へのお花をいただいた。ありがたいことである。「以前、足の辺りをすりっとしながら通っていったときの感触が忘れられない」とおっしゃっていた。そういうふうに記憶に残っているのって、すごいなあ、と思う。なんというか、すごく実感がある。「感触」という言葉一言だけれども、そこにはいろんな記憶と感覚がパッケージングされている感じがする。
かねがね「覚えていようとすることより、思い出せることが、身についていること」と思っているし、自著の中にもそう書いた覚えがある。しかしその一方で、人が何を思い出すのかなんて、確かめようもないことだ。だからそれを聞かせてもらうことは貴重である。
先日、あるダンサーさんのリハーサル会場でここ数年会っていなかったクライアントさんに会った。その方もダンサーさんで、その作品に出演することは知っていたので会ったこと自体は意外なことではなかった。でも、そこでの会話は私にとってなんだか嬉しいものだった。
久々にクライアントさんとひょんなところでお会いすると、「久々」な年月を「謝罪(?)」されてしまうことが多い。「ご無沙汰してしまって、申し訳ありません」「最近、なかなか行けなくて、すみません」というふうに。それは社会人として礼にかなった正しい態度でもある。しかし同時に、謝られることなんか本当はないのである。具体的にはさまざまな事情があるだろうが、要するに、それだけの用がないから来ない、んだと思っている。そんな言い方をするととても冷たいようだが、でも逆に、「時間をあけると悪く思われるかもしれないから、用はないけど来る」なんてことが起こる方がお互いにとってどれだけ毒か。そんなん、「すみません」くらいで済むか、どあほ、と言いたくなる。とはいえ、私もこの仕事で生計を立てている身。全くひとさまからの御用がなくなるというのも困るわけだが、それでもやはり生計のために用をこしらえるのは性に合わない。それで餓えちゃう時が来たら餓えちゃおかな、と仕事を始めた当初から思っている。
そんなわけで、「すみません」などといわれると、そこに本質的な意味がないとわかっていても恐縮してしまうのだが、このクライアントさんは「すみません」などとは一言も言わず、最近の活動についての近況報告をしてくれた。そして、今の活動にレッスンでの出来事がどれほど生きているか、という話をしてくれた。「今でもよく、何かの折に“あっ”と思うことがあるんです。これはあの時言っていたことだ、とか、こういうときはこうすればいいんだ、とか、ちゃんと声が聞こえるんです」と。そういうことは、間が空いてみないとわからないことだなあ、と思う。
時間がたっても人の記憶の中で生きていられるか。たぶん、それが私が教えていることの真価が問われることなのだろう。個人としての私を覚えていてほしいとは思わんが、私が何を伝えようとしたかを覚えていてくれるのは、すごくうれしい。だからといって、作為的に人の記憶に残すためのレッスンができるものでもない。やりかたわからんし。でも、だからこそ嬉しかった。
記憶の中で生きて、その人の「信頼できる無意識」の構成分子になること。なんだか分からないけど、私はそういうことがとてもうれしいみたい。