えこひいき日記

2013年9月26日のえこひいき日記

2013.09.26

大変ご無沙汰の「日記」更新になってしまいました。
昨年からもろもろ生活に変化があり、なかなか「書く」ということに時間を使えずにいました。とはいえ、仕事は変わらず。不定休にてこれまでどおり仕事をしています。

久々に、最初に書くことがこんなでなんなのだが、左膝の前十字靭帯を断裂させてしまった。出張先の高知県の海岸で。2週間ほど前のことである。

幸い、経過はよいと思う。昨日初めていつもどおりの通勤経路(地下鉄3駅分くらいの距離・往復)を松葉杖なしの徒歩でこなしてみて「いける」という感触を得ることができた。怪我からのリカバリーは日進月歩だと、これまでたくさんのクライアントさんと関わって感じてはいたが、自分の場合も叱り。最初は贅沢にもタクシー通勤の日々(地下鉄を使うことも考えたが、階段が難関となってパス)、そこから徐々に、片道だけ歩けたがえらく疲れたり、膝そのものに痛みは少ないものの、かばう為に使っている背筋や腹筋の疲れにびっくりしたり、途中でタクシーを拾う日も続いた。ほんの少しずつ、昨日できなかったことが出来るようになったり、昨日できたことを今日は止めてみたりという、単純な右肩上がりではない回復曲線ではあるが、自分的にはこの「いける(過剰に身体を傾かせるなどしてかばわず、コントロールして歩いてみて疲れない。ある程度左足に体重と運動を任せられる感じ)」は嬉しい。
個人的に大変「やったー!」なのである。

怪我をしたのは、仕事を全て終えて観光に連れて行ってもらった海岸だった。その海岸は砂ではなく、岩場のような場所である。石の多い海岸から車に戻ろうとしていたときに、左足もとの石が崩れた。間の悪いことに、同時に私の服が右側の木の枝に引っかかって一瞬動けなくなった。おそらく、左足が外側に倒れて捻挫したと同時に、右半身が枝に引っかかったせいで、左膝がねじれながら外側に引っ張られるような結果になったのだろう。そのときに左膝から「ばちん!」というすごい音がして、5秒くらい(主観的な時間の長さだけど)痛みでアタマが真っ白のような真っ黒のような状態になった。
ところが、痛みはそのときだけで消えた。私は膝に違和感を感じな殻もそのまま海岸を上がって車に戻った。しかし、シートに腰掛けようと思って横向きの動きをすると「がくん」と膝が崩れた。こんな僅かな体重移動を受け止められない。動きが制御できない。「やったな」と思った。
しかしそこは「最寄の薬局まで車で1時間半」みたいな場所だった。加えて「これを逃すと今日中に京都に戻れないかも」という列車の時間が迫っていた。現地で病院に立ち寄る選択肢を私は自分で消した。とりあえず、薬局によってもらい、シップと固定用のバンデージを購入し、大荷物を持ったまま京都まで戻ってきてしまった。案内してくれていた人たちは私が怪我をした瞬間そばにいなかったこともあって、こういう怪我だということはわかっていなかったと思う。なんせ、私自身ほとんど痛みもなく歩いていたのだから。

台風が去った連休明け、私は病院にいった。連休を挟んだために、帰郷してからの間私は自分で患部を固定し、普通に仕事をしていた。案の上、怪我から数日してから腫れとむくみがやってきた。わかっていても相当キモチワルイし、不安にもなる。
問診、触診、レントゲンやMRI検査等の結果、「左膝十字靭帯断裂」と診断された。
松葉杖を渡され(アルミ製の軽量のやつ)、使い方を習った。当たり前なんだが、松葉杖は己の身体を支えるための用具。肩掛けバッグをかけながらの使用には耐えないと判明。リュック型かたすきがけスタイルにせねばと思った。また、「己の身を支える」にあたって、杖の先を体側からやや離した「ハの字」スタイルでつくように指導され、納得すると同時に困惑。だって、公共の場所で使うと2人前くらい場所とるんだもーん。買い物とか、混んでいる電車の中とか、勇気いるなあ、と思った。
しかし一方で、杖を持っていると「怪我をしています」アピールにはなる。勝手にリハビリ(つまり、杖を持たずに歩行練習。なるべく体が傾かないようにも気をつけているので、ぼさっと見ていたら怪我をしているとは思われないかもしれない状態)をしていてヒヤッとするのは、不意に人にぶつかられることなどである。怪我をして3日ほどの期間怖かったのは、「スーパーで右斜め横向きに商品に手を伸ばす」動作だった。この瞬間に誰かにぶつかられたりしたら膝が崩れそうで緊張した。あと、大き目の交差点を渡りきれるかなども気を使う。

医師には「時々歩いて。でも休めて」というなかなかのお任せスタイルの指示をいただいたので「もう、これはあくなき人体実験プラス社会実験だわ」と思うことにした。

それにしても、私の左膝は大怪我の割にはラッキーケースのようである。医師にも、仰向けになって膝の曲げ伸ばしをされる際に「あれ?曲がりますねー」「伸びますねぇ」と感心された。個人的感覚では「伸びきらない」「体重がかかった上体なら、曲げ来たときに安心感が薄め(当然か)」があるのだが、一般的に「よく動く」部類であることは自分でも理解できる。自分のクライアントさん(靭帯断裂や損傷のリハビリに来たクライアント。10代から30代の、スポーツやダンスをする人が主)のレッスン時の記憶を紐解いてみても、もっと痛がっていたり、動きに制約が多かったような気がする。

私がラッキーだったのは「①断裂時に転倒しなかった」ことがあるだろう。多くの場合、切れた衝撃で倒れたり、何かの運動中だったりするのでその勢いのままに転倒したりする。それで打撲等の損傷も重なり、悪くすればその衝撃がさらに痛めた靭帯やその周辺組織にダメージを与えるのだろう。しかし私はなぜか突っ立っていた。なんであんな足場の悪そうなところで転ばなかったのか、自分でもわからない。
あと、我がコトながらすごく客観的にいうと「②過剰な不安感や恐怖感が少ない」ことがあるかもしれない。
レッスンでクライアントさんのリハビリを手助けするときに、機能回復に立ちはだかるのが「恐怖心」と「被害者意識」である。
事故や怪我をしたときにしていた動き、あるいはそれに類似する動作を、それよりうんと軽度なレベルで行うことさえも恐怖心を抱く人は多いし、そういう具体的に「この動きが怖い」ではなくて「動くことが怖い」「動くこと=痛めること⇒怖い」みたいな気持ちになってしまう人もいる。「動かさなきゃ」「でも怖い(痛い気がする)」という葛藤をココロの中でやりすぎて疲れ、実際に身体を動かして様子をみるに至れない人もたくさんいる。
また、「怪我した原因(誰のせい、何のせい)」「怪我の意味」にこだわりすぎて前に進めなくなる人もいる。誰にとても怪我はありがたいものではない。できればしたくない。その、「したくないキモチ」「怪我を忌むココロ」が「怪我という“不当”を負わせられた自分」「負わした何か」にこだわる気持ちに変化し、それらから「何らかの“償い”を得るまでは治ってやるものか」みたいな気持ちになってしまう人もいる。「あなたがこうしろって言ったから」と他人を攻めるケースもあれば、「自分があんなことをしてしまったから」「以前こうしたことの報いか」というような考え方をする人もいる。
その考え方が一部当てはまることもある。怪我という具体的な損傷を引き起こす原因は、ある。それを知ることで予防や回復に役立つこともある。でも、「怪我そのものの(存在)意味」を問うことはほとんど「人生の意味」を問うことだ。「なんでどうせ死ぬのに生きているのですか」とか、そういう類の。そういうことは、怪我の最中ではなくて、元気一杯のときに考えるほうがよい。怪我や病気の最中に答えを求めようとしても、身体的な条件に引きずられて悲壮な回答になる確率が高い。それよりは、この問題を元気になったときまで忘れずに持ち越す選択をしたほうが賢明だと思う。いろんな場面で継続的に考え続けるのだ。本当に、自分の「人生の意味」なるものを考えたいなら、そっちを勧めたい。

とはいえ、私の中に「恐怖心」や「被害者意識」が微塵もないかといえば、そうではない。
例えば、ぶよぶよした患部に触れるのはけっこう「こわい」ことだった。「キモチワルイ」といったほうがいいかもしれない。レッスンでいうところの、いわゆるhands-on(手で身体に触れ、その部分の動きを意識したり、観察したり、望ましい動きを導いたりする)を自分の膝にするのを「キモチワルイ」と思ったりして、障りたくない気持ちになったりもした。ま、結局触るんだけどね。そうすると、怪我の瞬間にこわばった筋肉や、かばって縮こまっていた筋肉の状態がわかってきたりする。それを解くことで結果歩きやすくなったりするのだから「いいこと」なんだけれども、「やりたいか」と聞かれたら「やりたくない」。物理的な意味だけではなく、感覚的な意味も含めて、この事象に「触れたくない」自分がいたりする。
あるいは、あの時、海岸に下りなければよかったじゃないか、スケジュールが過密で疲れてもいたのに、という気持ちが湧き上がってくることもあった。でもそれは言葉通りの意味ではなく、ただ「残念」という気持ち、怪我をする前に「思うべきこと」だったかといえるかというと、そこまでのことではなく、あくまで怪我をした後の、現在の感想に過ぎない。それにこの感情は「原因を知りたい」というよりも「人生を自分の思い通りにコントロールしたい」という欲望の要素が強い気がする。海岸に下りさえしなければ靭帯を切らなかったという保証は何も無い。確かに、「海岸に下りない」ことによって「靭帯を切る」確率を減らすことは出来るかもしれない。でもそれはどこまで有効な考えか。
『パイの物語』(ヤン・マーテル著 唐沢則幸・訳 丈書房文庫)にもこんな一説があった。「生きるための哲学として懐疑心を選ぶことは、移動の手段として動かないことを選ぶに等しいのだ」
私に出来ることは、私に今出来ることを、する、ということだけだ。不完全で、不確実だけど、無意味とは違うと思う。怖くても、そう思うことにする。

膝のことはまだまだ経過観察中である。個人的な感覚ではまだ膝が伸びきらないし、片足で3秒以上自分を支えられる自信が無い。これがこのまま続くのか、それとも変化するのか。それを観察中である。それによっては靭帯を再建する手術を受けることを考えなくてはならないだろう。
腫れが引くまで(目安として1ヶ月)手術は出来ないし、手術を受けなければ靭帯は勝手に再生したりはしないので「1本切れたまま」になるのだが、さてさて。

もしも手術を受けるにあたって評判のよい病院などご存知の方がいればお知恵を拝借したい。

カテゴリー

月別アーカイブ