えこひいき日記
2014年1月30日のえこひいき日記
2014.01.30
年末に「嬉しい誤算」があった。うちの猫のことで。
猫を飼う友人が長期出張するということで、お世話をすることになった。友人とは、私が出張するときにもうちの子の世話をお願いする猫の互助会仲間でもある。通常は友人のお宅に通って世話をするのだが、友人宅は階段しかないアパートの4階。現在靭帯断裂中の私にはちょっとしんどい。なので「試しに拙宅に来ていただくのでは」ということになった。
とはいえ、ゲスト猫の滞在に関しては賭けの要素が高かった。以前、うちの猫は、うちの子2匹目候補の猫とそりが合わず、どんどんいじけて体調を崩した、という前歴がある。二匹目候補は友人の猫となり、元気に暮らしている。そして今回のゲスト猫2匹のうち1匹はその子なのだ。
にもかかわらず、「来ていただくのでは」と思ったのは、私の脚の都合だけでなく、「なんとなく」そうしたい、そうしたほうがいい気がしたからである。でもなぜそう思ったのかは自分でもよくわからないし、リスクがあるのにやってみようと思ったのかはわからない。友人には、「もしもやっぱり合わないようであれば、通常通りお宅に通って世話させていただく」ということで了解してもらった。
んで、蓋を開けてみたらhappy!なんと、うちの子とゲスト猫2匹は仲良くやってくれたのである!
いや、「仲良く」というと誤解を招くかもしれない。もしもいきなり和気あいあいと遊ぶとか、猫団子を作ってすやすや眠る、などということを「仲良し」とするならば、それは違う。
彼らが最初に行ったことは「くんくんしながらしゃー」であった。「くんくん」するのは、お互いの存在に興味を示しているから。「しゃー」るのは、本格的に気を許すほどにお互いを知り得ていないから。知らない存在と知り得た以上に今すぐ仲良くする道理はない。
人間は、相手とどんな関係になれるのかが判明する前に相手への態度を決定してしまうことが多い。いや、決定しようとする、というべきか。「都合」と「価値観」で。それで「うわべ仲良し」が増えて、結局ストレスが溜まるんだよね。一見うまくやっているように見えても、本当のことは必ず現れる。
相手に本当に誠実であろうとするならば「くんくんしながらしゃーる」方が正直だと思うのだが、残念ながら人間にはそういう作法がちゃんとはない。人間にも「くんくん&しゃー」にあたる作法が社会的に認知されているなら、正直でいいのに、と思う。
そんな感じで「くんくん&しゃー」を繰り返し、猫たちの距離は近くなっていった。
うちの猫は年下のゲスト猫の遠慮のないちょっかいを堂々といさめたり、この場所の先住者としての威厳をちゃんと示したりという、普段の私との生活では見せたこともない大人らしい態度を自然に示せることがわかって、私は本当に喜び驚いたのであった。私に対しては甘えん坊だから。そして、かつてのトラブルはすでに彼にとって「過去」だったのだ。
年下のゲスト猫に対しては、単に縄張りを主張して威張っているのではなく、時には一緒に駆けっこをしたり、ゲスト猫が興味本位でうちの子のご飯をつまみ食いしても怒らない(食事中にあからさまにご飯皿に顔を突っ込んできたときには、耳をかんで怒っていたが)。とても自然な自信に満ちているのであった。ゲスト猫はうちの猫を「兄貴」と仰ぎ、ご飯の順番(先住猫優先)も守ってくれるし、後をついて歩いたりする。
「普段の自分」とはいついかなる意味でも、「過去の自分」だ。
周辺条件が普段通りなら「今の自分」が「普段の自分」と同じことをする確率は高い。でも「今の自分」が「普段の自分」と違ったことをしたからといって「異常」や「間違い」とは限らない。
うちの猫にとって、かつて他の猫がやってきて体調を崩したことは既に「過去」であって、「今」でも「常」でもなかったように、「今」に反応して今の自分をがんがんあらわにしていい。「自分」に関するデータは更新し続けるべきである。
・・・と、トラウマや過去のことに縛られているクライアントにも伝えたーい。変わっていいのだ、そんな自分は見慣れないけど異常じゃない、と。大きな苦しみを負ったとしても、それが全額購われる大きな幸福の到来を待たずに、小さなことでころっと幸せになっちゃっていいのだよ!と。
あ、ところで愛玩動物管理飼養士2級の認定試験に合格した。
この資格は9ヶ月くらいの通信教育で行われ、1回スクーリングがあり、12月に試験があった。主にペットショップを開業する人やトリマーさん、動物看護士さんが取得しに来ることが多いが、社会人の受講者も少なくない。
勉強の内容は、半分が動物愛護法関係、もう半分が主なる愛玩動物の生態や基本の飼育法についてであった。
動物愛護法について学ぶということは、いわば動物虐待の歴史、動物愛護法を制定しなくてはならなかった背景を学ぶことでもある。それはなかなか精神的にきついところもあった。スクーリングでは講師の方が思わず「人間って、なんなんでしょうね」と呟くほど、人間の「認識」というやつがもとで他の生物の生命や存在を翻弄してきた歴史は、時に壮絶に暗い。そして動物を虐待しても人はそんなに利益を得られないし幸せにもなれない、という、動物愛護の必要性を見出した「認識」の変化が、やがて人間に向けられ、児童や女性の虐待防止運動へと向かっていったというくだりを聞くにあたって、興味深いとともに、気持ちは複雑になる。
「認識」が作りだす本当の関係性じゃない関係性。「認識」が作りだす「敵」と「味方」。コソボ。ルワンダ。チベット。シリア。・・・
「認識」。
多分、私が何の仕事をするにしろ、ライフワークになるであろう、モノ。
ありがちなお話かもしれないが、試験の直前4日間くらいは仕事が壮絶に忙しく、まったく勉強をする暇がなかった。
それまでだって、とても「はい、充分勉強しました。ばっちりです」とは言えない勉強っぷりだったし、ツメをしておこうというタイミングでこういう状況になると、正直焦った。というか、苛立った。
思うようにコトが運ばないと、もう思うような結果は得られないと決まったようなもの、という幻想が私を覆いそうになる。
でもそんなことを思う私は、無駄なプライドを持った私に過ぎない。私にできることは、とにかくやれることをやること、別にそれで何も失わないじゃん、と思いなおして、リラックスして試験を受けることができた。試験会場では、その試験の厳正さをアピールされればされるほど緊張しやすくなるなーと感じつつも、なぜかそんなことも「ごっこ」みたいで楽しく受けられた。
まあ、こんなことも合格通知が来た後だから言えることかもしれない。試験直後は「これで落ちていたら大笑いだな」と思っていたから。
この資格を取ってみようと思った最初のきっかけは、亡父の犬の面倒をみるようになったことであった。父が入院してから、食欲がなくなって痩せ、毛も抜けて、そのくせ気が荒くなって散歩にも連れていけなくなった犬を「どうしていいのかわからない」と母に泣き疲れたのがきっかけだった。私なりにいろいろ調べ、シーザー・ミラン氏のドッグ・トレーニングなどを参考にした結果、なんとか犬を救うことができた。
まがいなりにも犬を助けることができたのには、こうしたことが起こったときに「問題」と「犬」とをどう見ているのか、それをどのように変えることが解決につながるのか、それを見たから…ということがあると思う。それは普段レッスンで使っている視点の応用でもあったと思う。でも、それだけではなく、犬に対して「見る」ことをするには、更に改めて意識し、かつ「それを使わずに理解する」必要があるものがあると感じた。…この話を書くと長くなるし、大事なことなんでまた今度。
(今、手術入院直前なんで、たまっている仕事を片付けんといかん)
それにしても、1年くらい前の1年間、私はすごくしんどかったんだな、と思う。現在靭帯断裂中で、何かと手間がかかったり忙しかったりするけれど、しんどさでいえば、父の闘病に付き合っていたあの1年の比ではない。いやー、つくづく絶対繰り返したくない日々だ。でも同時に、あの苦しさのおかげでわかったりはっちゃけたこともある。これまでだって、これからだって、苦しいことなんかいっこもwelcomeじゃないけれど、そんな中からも何かが見えたり学べちゃったりするし、結果的に成長したなんて言われたりもするから、人生って因果だよね。