えこひいき日記
2018年10月16日のえこひいき日記
2018.10.16
ある時急に、ベランダで植物を育てたり、家庭菜園を始めたくなったり、動物が可愛くなって飼育を始めたりボランティアをしたり、はたまた赤ちゃんや子供がやたらと可愛いと思ったるすることがないだろうか。
私はそれを「命の焚火にあたる」と言ったりしている。
自分の生命力というか、生き物としてのエナジーが何らかの理由で「低下している」と感じるとき、私たちは「自然」に触れたくなるような気がする。
何か、シンプルで、力強いもの。
言葉でそんな風に書くと、なにやらこわもての「ストロング」なイメージの方が勝るかもしれないが、実際には「ふわふわ・あったか・かわいい」はものすごくストロングだったりする。「思わず笑顔になる」存在の力はすごい。
自分に足りなくなった「それ」を、有しているものに接することで補う。
まるで焚火にあたって体を温めるように。
社会的に立派に「おとな」をやって、社会や他者とにぎやかに関わって、お金を稼いで、素敵なグッズを身の回りに集めても、その中に生命力が蓄えられるかはわからない。逆にそういうことをすればするほど「何か」がすり減ることもある。
その兆候を感じた人間はほとんど本能的に「焚火にあたろう」とするのかもしれない。
昨今の猫ブームも「それ」なんではないかと思ったりする。人によっては突然ランニングを始める方向に行くかもしれないけれど。実際、ヨーガやフィットネスブームの一部は「それ」かもしれない、と思ったりする。
ただ、何事もそうだが、安易な善意や無理解はしばしば依存や誤解の温床となる。この「焚火にあたる」行為もご多分に漏れない。要するに、やればいい、ってもんじゃないの。
先日、東京で行われた『動物介在介入(AAI)の基礎知識』という2日間の講座に参加してきた。
AAIとはAnimal Assisted Intervention/interactionの略称で、「動物介在療法 Animal Assited Therapy(AAT)」「動物介在活動 Animal Assisted Activity(AAA)」「動物介在教育 Animal Assisted Education(AAE)」の総称である。
現在国際的に認められている専門用語はこの3つだけなのだが、一般的には全部「アニマル・セラピー」と呼ばれるものかもしれない。
だが「アニマル・セラピー」の中にはこれの何にあたるものなのか、誰のために、何をする行為なのかが明確でないままに「動物」が「使われている」ことがある。
動物たちは「かわいい」。見る者、触れる者を笑顔にするし、モチベーションを掻き立てたりする。それだけに、この行為が動物たちへの搾取・虐待にならないか、また病院などの施設を訪問して活動する場合に相手(人間)に対しての配慮、施設の人たちとの打ち合わせや話し合いなど、おろそかにすべきではないことがたくさんある。安易かつ悪しき意味での「客寄せパンダ」的な「アニマル・セラピー」には警戒すべしとさえ言える。
この講習は、AAIを推進すると同時にそうした危うい傾向に警鐘を鳴らすものでもある。
「愛玩動物管理飼養士」の資格を取り、今回また「AAI講座」に参加した私であるが、現在具体的に「動物」を使った活動をしようという目論見があるわけではない。
ただ「動物」を通して考えることの中には、人間の中にある「命」について考えることにつながることが多々ある。
社会と深くつながった人間にとって、「命」とは「生命」のことではなく「社会的価値」「評価」になっていることが多く、自分の「価値」が感じられないから「死にたい」とか、他者の存在に「生命」ではなく「価値」を感じられないから「死ね」とか思ってしまうことが珍しくないような気がする。
それは当然「からだの使い方」にも表れていて、「価値」で動く人間の動きはざっくり言って「りきんでいる」。「りきんだ」動きには、その人の「緊張」としての意識の高さや「努力」とかは感じられるが、けして「自然」ではない。「立派」ともいえるが、疲れる。やがてそれは本人も無視できない「息苦しさ(生き苦しさ)」になることがある。
それがうつ病等のストレス疾患になって現れることもあるだろう。それのみならず、例えば様々なハラスメント行為なども自他の存在を「生命」ではなく「価値」でとらえるから生じている気がする。
人間にとっての「生命」とは何なのか、それは動物にとっての「生命」とは違うのか同じなのか、正確なところ、私にはわからない。
また「生命」を「肉体を有している期間と器官」だけにあるのかというと、それもまたその限りではないと感じる。そうしたことを加味すると、まずます「命」「生命」を何だというべきなのか、軽々には触れられなくなる。
ただ、定義はできなくても、「生命」を感じることはできると思う。
別に定義できてから感じることを自分に解禁する必要はない。
今の私にとって「生命」の放つ力はいわば「焚火」。人を焦がすような熱ではなく、料理をするとか、発電に利用するとかもできるかもしれないけど、あえてシンプルにただそのそばに座る心地よさを受け止めてもいいし、通りすがりに目にするだけでも「わあ、いいな」とほほ笑むよう感じの「威力」でいい、と思ったりしている。
さらにいうなら、誰かがあなたにとっての「焚火」なだけではなく、きっとあなたも誰かにとっての「焚火」かもしれない、と思ってほしい。小さくても、大きくても。「価値」だけじゃなく「存在」として。
ところでこの講座に参加することで、約1年越しのもやもやが解消された。
昨年11月17日(そのときに「えこひいき日記」にも書いているのでよかったらご参照ください)に、ペット共生型有料老人ホームの開設を記念して行われた『高齢者とペットとの暮らしを考えるシンポジウム』。そこで「いわゆる癒し効果的には生体の方が有効か、ぬいぐるみやアイボなどのロボットではどうか」という質問が出た。その時に講演者の医師・獣医師が「それは当然、生きた犬猫だろう!」という態度をとり、さらに「実はアイボなどでもかなり良い結果が出ている」というアメリカからの報告を得ると「残念そう」にしていたということがあった。
私にはこの「残念そうな態度」が引っ掛かっていた。
またその際に、私は質問シートに「入所者に異なる動物へのアレルギーがある場合はどうするのか(例えば犬は大丈夫でも猫にアレルギーがあるとか、ウサギは好きだけどチモシー・アレルギーの人が、同じ施設にそれぞれのパ^トナー動物と入所したら?)」という質問をしたのだが、取り上げられなかった。自分としては結構大事な問題を聞いたつもりだったのだが、彼ら的には「愚問」だったのかしら、と内心がっかりしていたのだが、今回はそうしたことに対する見解も聞くことができた。
ここでうかがった話では、何も生体だけが「効果的」なわけではなく、直接動物に触れるのが怖い参加者やアレルギー保有者にも配慮して、ぬいぐるみなどで活動することも創意工夫の一つでは、とのことだった。
また既に施設慰問などのAAI活動をされている方からも「活動動物の数が参加者に対して少ないこともある。そういうときにぬいぐるみを連れて行くと、がっかりされるどころか、喜んでもらえる」という報告を聞かせていただけた。
この講座内でもAAEの現場において「生きた動物を用いる必要はあるのか」という話が出てきた。
例えば、学校でウサギを飼うとか、鶏の世話をすることを「命の教育」の一環として行ってきた教育機関は少なくない。
しかし、この「命の教育」での「命」とはどんな「命」なのか。下手をすると「生命尊重」というよりも「ちゃんと世話しないと死にますよ」と「死」を恐れさす、「(飼う)責任」と「(死の悲しみを通しての)ペナルティ」を結び付けるだけの教育になってはいないだろうか。「教育」のためなら、ウサギや鶏、メダカなどの命を「動物だから死んでもいい」「教育のための必要な犠牲」と切り捨ててまともに「その生命の用い方」を論議してきていない側面はないだろうか。
AAIとは異なるが、最近ニュースでも取り上げられるようになった「多頭飼い崩壊」などもある種の「動物乱用」の結果かもしれない。あるいは「イノセントすぎる善意」によって生まれた悲劇と被害といえる側面はないだろうか。「かわいい」「かわいそう」「放っておけない」を自分だけで抱え込んで、誰にも相談せず、方法を学ぶ機会もなく、どうしようもなくなると「崩壊」に向かうのはむしろ当然なのかもしれない。
でもその発端に「愛」があるなら、「生命」を感じ取る感受性があるなら、やはり「用い方」を考えたい、と思ってしまうのは「からだの使い方」なということを生業にしてしまった人間の因果なのだろうか。
書いていて自分で気づいたけれど、どうも私が動物関係のことを勉強したり、ヨーガやアーユルヴェーダを「おもしろい」と思ってしまうのは、自分なりの「生命の用い方」を模索してのことなのかもしれない。